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コラム

みずいぼ(伝染性軟属腫)の痛くない治療について
(2010年3月5日)

みなさんおなじみの“ミズイボ”は、ふつう米粒半分くらいのツブツブです。もっと小さなものや、大人の指くらいに大きくなるものもあります。よく見ると中央におへそのようなくぼみがみられます。
ウイルスの感染によるもので、人から人へと感染します。次々に増えることもよくありますが、一定期間を過ぎると、自然に消えてしまうこともあります。個々のミズイボは、大体2〜4か月くらい続きますが、次々に新しいものができるので、実際には6〜9か月くらいで治ることが多いようです。しかしもっと続く場合もあります。
腋の下や肘・膝の曲がる部分、あるいはお腹や胸にも散らばって増えたりします。ふつうは痒くも痛くもありませんが、ブツブツの周りに皮膚炎を伴うと痒くなります。

小学校低学年までの小さなお子さんに多いのですが、まれには大人にもできます。毎年夏にできるものとされてきましたが、このごろは冬でも珍しくなくなりました。またアトピー性皮膚炎があるとできやすいので、普段から皮膚炎を治療しておくことが大切です。乾燥肌がある場合は、保湿剤で肌をしっとりさせておくと、予防的な効果があります。


ミズイボの治療については、いろいろな意見があります。確かに、人から人へと感染するものですが、特別な病気がない限りは、自然治癒を待つという選択肢もあります。ただ湿疹や乾燥肌がある場合は、普段からお手入れをしておいてください。

さて治療法ですが、通常はピンセットのような器具を使って、ウイルスの塊である中身を取り出す(圧潰)方法がよく行われます。これで治ってしまいますが、やや痛いのが難点です。痛くない方法として、硝酸銀の溶液を塗りやすい形にして局所に塗り、ドライヤーで乾燥させる方法があります。数日すると塗ったところが少し黒くなってきて、1,2週間で取れてきます。痛みは全くないので、小さい子たちにはこの方法をよく使います。ドライヤーの音にびっくりする子が時々いますが、普通のヘアドライヤーですから、安心してください。

細菌性髄膜炎とHib(ヒブ)ワクチン
(2010年2月27日)

1. 細菌性髄膜炎について
細菌性髄膜炎は、2歳未満のこどもが罹りやすく、死亡率は約5%、運動麻痺、精神遅滞などの後遺症が約20%にみられる重篤な病気です。早期の診断はきわめて難しく、また病気の進展が速く、内服の抗生剤はほとんど効果がありません。したがって、予防法はワクチン接種以外にありません。発症した患児は、合併症がなくても約1ヶ月の入院治療が必要であり、脳内に膿がたまるなど合併症があるとさらに長期の治療が必要になります。細菌性髄膜炎の約60%がインフルエンザ菌b型(以下Hib、ヒブ)の感染によって起こり、ほかに約30%が肺炎球菌によって起こります。

2. Hib(ヒブ)ワクチン
Hibワクチンは、Hibが小児へ感染するのを予防するワクチンで、平成20年6月から任意接種として国内で使用が開始されています。一方世界では、1980年台後半から100カ国以上の国で導入され、その有効率は90%以上で、効果は劇的です。ワクチンが普及している国ではHib髄膜炎はほとんどみられなくなっています。また、ワクチン接種による重篤な副作用はみられず、安全性もすでに世界で証明されています。接種スケジュールは、乳児期3回、1歳時1回の計4回であり、現在は任意接種で保険適応外のため、保護者の負担となり、経済的負担が大きいのが現状です。


3.ワクチン費用公的補助の意義
(1) Hib髄膜炎からこどもを守る
Hib髄膜炎は、ワクチンで防ぐことのできる病気です。しかし、費用が高価で接種が経済的に困難となることが予想されるため、費用の一部を自治体から公的に補助することは、Hib髄膜炎からこどもを守るために大きな意義があります。

(2) 小児救急医療への貢献
小児救急医療で最も重要な疾患のひとつが細菌性髄膜炎であり、発熱以外に特有な症状がないために、発熱だけを症状とする小児が夜間救急外来を受診するのもやむをえない状況です。費用補助によりHibワクチンの接種が可能となり髄膜炎の心配がなくなれば、発熱患者が自宅で様子をみることも原則的に可能となり、夜間救急外来受診数が減少し、小児救急医療の負担軽減に貢献するはずです。

(3) 髄膜炎以外のHibによる感染症の減少
Hibは髄膜炎の他にも、敗血症、関節炎、骨髄炎、急性喉頭蓋炎、肺炎などを起こすため、費用補助により接種率が上昇すれば、これらの罹患率の減少も予想されます。また最近では、抗生物質が効きにくい薬剤耐性のHibも出現し治療が困難になっており、ワクチンはこれらの菌の感染予防にも効果があるため、補助による接種率向上は小児診療現場でも大変有意義です。


参考文献1) 神谷齊ほか.インフルエンザ菌b型髄膜炎の疾病負担とHibワクチンの費用対効果分析.日本小児科学会雑誌 110(9):1214-1221, 2006
2) 鹿児島大学病院小児科 西 順一郎氏の「Hibワクチンの公的補助の意義」より一部抜粋

ミヤンマーへの支援(2008年6月22日)

 今年5月にミヤンマーの南部沿岸地域を襲ったサイクロンNargisの被害者に対して、おうえんポリクリニックが所属する群馬県のNPO組織T・M良薬センター(TMRC)とハンセン病回復者とその支援者たちで構成するIDEA-Japanは、以下のような活動をしました。

TMRCの活動:ニュースレター13号に報告された活動報告を、以下に要約します。 サイクロンによる死者は10万人を超え、被災者は240万人と言われているが、正確な死亡者数は不明で、30万とも40万とも推測されている。TMRCのヤンゴン事務所は、屋根が飛ばされ水浸しとなった。TMRCの本部は支援の要請を受けて、メンバーを被災地へ派遣した。この時混乱した現地での伝染病対策として、TMRC顧問の並里まさ子医師から抗生物質2万錠を調達し、被災地で活動中のミヤンマー医師会を通じて被災者に配布した。また蚊が大量発生してマラリアが猛威を振るっているとの情報を受けて、現地の業者に100世帯分の蚊帳を発注したが、今回の調査地ダラー郡の避難所には186世帯が集まっていたため、急遽もう100世帯分調達した。 (写真は現地で薬剤の供与をしているところ) IDEA-Japanの活動 運営資金より10万円を拠出して、TMRCの渡航に合わせて現地へ手渡しました。当会のメンバーである並里まさ子医師が現地におけるハンセン病対策の責任者Dr. Kyaw Kyawに連絡し、今回の災害に遭遇したハンセン病患者およびその回復者たち、また日夜ハンセン病対策に奔走する保健要員たちへの支援として、有効利用されることとなりました。 以下に、Dr. Kyaw Kyawからの、礼状を添付します。 (写真中央のロンギー姿の男性が、ヤンゴンのDr Kyaw Kyaw:チョウチョウ医師)

Dear Namisato san
Thank for your contribution in relief of cyclone victim
I well received 922 USD from TMRC members together with your letters.
I handed that cash to a team of retired leprologists (Dr Kyaw Lwin, Dr Tin Myint, Dr Mg Mg Gyi, Dr Tin Shwe, Dr Myo Win). They all are kind hearted dedicated persons in leprosy and know you well. I hope you may know all of them.
The team had ready raised funding and planned to donate cash and foods to cyclone victims of leprosy workers (both still in service and retired), patients and their families. Dr Tin Shwe (ILEP liaison officer) may send you a letter of thank and after that he will inform you how your money was effectively utilized, probably with photos.
Amoxillin you sent were not coming to me for they were directly donated to Myanmar medical association.
Thanks again
Yours truly,
kyaw kyaw

アラブのパン

 昨年の暮れにサウジアラビアを旅する機会があり、そこで見聞した幾つかの話題の中から、今回はパンの話しを紹介したい。

 麦が栽培作物として定着して久しいが、手で石臼を前後させて挽く人力摺臼(サドルカーン)で小麦を粉砕するようになったのは、エジプトでは第一王朝時代とされている。この製粉法が今日でもアフリカのマリ国の一部に現存するところをみると、棄て難い便利性を持つ伝承技術なのだろう。
 紀元前1500-1900年、古代エジプトの壁画に記された製パン方法は、まずつき臼で麦を潰し、粉にし、その後篩にかけて、さらに粉を摺り臼で細かくした。そんな手間暇かけて製粉した小麦粉に、水を加えて軽く練って生地を作り、形を整え、釜で焼いてパンにした。それは現在のパンの食感からはほど遠く、ビスケットよりも更に硬い乾パンのような食べ物だっただろう。
 さて中東では、チグリス・ユーフラテス川流域に広がる半湿原に、早くから住民が定住して農業を営んでいた。人々は山羊、羊、駱駝、牛などの家畜を飼育し、時には畜力をも借りて、農耕をした。栽培作物は、オリーブ、ナツメヤシ、イチジクなどの他に、毎年種を蒔いて麦や稗などの穀物を収穫した。メソポタミア文明発掘調査書を読むと、この地方でも古代エジプトと同様に摺臼を用いて小麦を粉砕し、製パンを営んでいた様子が報告されている。
 スエズ運河が開通する以前、アラビア半島とエジプトは地続きで、お互いの言語を解する住民同士が狭い海峡を往来しながら盛んに交流が行われていたはずである。また小麦の古里が、アフガニスタンであるとする説もあり、パン作りの歴史に関する限り、エジプトが先か、メソポタミアが先なのかは定かでない。いずれにしても、ロバ、駱駝、牛などの家畜に石臼を引かせて小麦を挽く道具(ロータリーカーンやミールストーン)の本格的な利用はローマ時代とされ、これらの製粉道具の発明により、飛躍的に小麦粉の生産量が増して、多種多様な小麦加工食品の量産へと繋がった。そしてさらに、パスタやスパゲテイー、ビスケッツトやクッキイなどなどの製造へと発展した。

 さて、話をアラブパンに移すとしよう。アルコールを発明したアラビアでは、当然酵母の存在を認識していたであろうから、パン生地を膨らますのにも酵母を用いたであろう。全粒粉に少量の水を加え固練りにしたものを自然に放置しておくと、空気中に飛散している酵母や乳酸菌が付着する。それを種菌として、パン生地を醗酵させる。現在でもサワードーや黒パンの製法に応用されている製パン法である。
 酵母の存在を認識していたと思われるエピソードとして、エジプトでは小麦粉に葡萄の絞り汁を加えて一晩寝かしてパン生地を醗酵させた話や、古代ギリシャでは稗粉と小麦粉でパン生地を作る際に、白葡萄酒の搾り糟を混ぜた話などがある。
 さて今日のアラブパンであるが、一つは地中海沿岸で食べられている中央が膨らみ恰も遠方から眺める遊牧民のテントを連想させる、なだらかな丸屋根の円形のパンである。製法は、醗酵途中でパンチを入れてガス抜きをし、再度醗酵させて成型、焼成する。これは日本でも見られる、フランスパン**の一種、パン ド カンパーニュと同じ種類のものである。
 もう一つは、サウジアラビアや近隣諸国で食べられている、極薄のパンである。ピザ生地の様なものを更に薄く延ばして、あたかもぴらぴらの薄い紙状の生地にし、窯の壁に貼り付けて焼く。途中でベンチタイムを採るかどうかの違いはあるが、インドやパキスタンのナンやチャパテイの製法に似ている。生地が薄いので焼き加減が難しく、油断すると焦げてしまう。そうかと言って、釜出しが早すぎると生煮えになる。どちらかを選べと言われれば、炭化して食べられなくなるよりは、少々生煮えでも香味と形が残っていた方が楽しい。直系1メートル幅の生地で焼成時間は180度2分程度である。
 今日では電力に不自由しない産油国であるが、石油採掘が盛んになる以前は、駱駝や牛糞で石を暖め、その石にパン生地を貼り付けて焼いたり、砂にやや厚めの固練り生地を埋めて砂を被せ、その上で火を燃やしてパンを焼いた。
「アラブのパン」を語ってきたが、これらの国々の主食は肉や野菜の煮物で、パンとサラダは副食である。昨年現地のスークを歩いていると、干葡萄、ナツメヤシ、イチジク入りの菓子パンや、輪切りにしたオリーブとチーズを練り込んだピザ風調理パンも売られていた。また健康に留意して、全粒粉(グラハム粉*)で作ったパンも人気があるようだ。

 午後4時ごろになって日が陰ると、急激に気温が下がる。夕暮れ時、一陣の涼気を含んだ風が吹くと、何処からともなく現れた1トン車に向かって群集が手を伸ばし、我先に押し寄せている。何だろうかと眺めると、パンとヨーグルトが配られていた。今は巡礼の最中、遠来からの礼拝者をねぎらって、地元の篤志家が喜捨をしているのである。そう言えばモロッコのアガデイールに住んでいた頃、毎週金曜日の昼過ぎに地元の物乞い家族が集まり、皆でクスクスを食べていた。授かる側も振舞う側も、長い歴史の中に受け継がれてきたアラブ世界の風習を、自然に営んでいる日常の風景であった。

(*)グラハム粉=1839年シルベスター・グレアム(米国人医師)が、ビタミンB1やEを多く含んだ胚芽を除去せずに、全粒を潰してそのまま粉にする方法を提案。

(**)近代フランスパンのルーツを辿れば、道はイタリアに繋がるようだ。 メデイチ家のカトリーヌが、アンリ皇子(フランス)のもとへ嫁いだ際に従って来たイタリア人料理人が、イタリア式製パン技術をフランスへ持ち込だと言われている。しかしフランスでは以前から麦作は行われていたので、パンの在来技術は既に存在していたと考える方が妥当である。

記事掲載日:2008/02/01(fri)

酸乳

<ツワレグ>
サハラ砂漠に住む遊牧民ツワレグ族は、駱駝や山羊の乳を瓢箪の容器に搾り、そのまま蓋を閉じて発酵させる。砂漠では、昼近くなると気温は40度を越し、朝入れた乳は昼過ぎには甘酸っぱい香りのする発酵乳となる。
ここでは醗酵に種菌を加えることも無く、乳を容器に入れてただ待つだけでヨーグルトができる。一見種も仕掛けも無いように見えるツワレグ族の発酵乳製法は、なかなかどうして、実は繰り返し使う瓢箪の内側に乳酸菌が付着しているのだ。これが種菌となっているので、通常私達がヨーグルトを造る際に毎回スターターとして乳酸菌を添加する煩わしさがない。高温下では短時間で乳酸菌が繁殖し、それに伴いPHが急激に低下する。
PH4ほどになると、他の雑菌は繁殖が抑制されてしまう。生乳の保存が困難な砂漠では、酸乳にして腐敗を防ぎながら保存する。

<マグレブ>
マグレブとは、現地の言葉で「日の沈む国」を意味し、アフリカ大陸西北岸に位置するチュニジア、アルジェリア、モロッコのマグレブ三国は、かっての植民地統治時代の名残を留めており、アラブと南欧の面影が混在している。
当地の酸乳は、牛乳や羊乳を煮沸殺菌した後に壜詰にして、二日間醗酵させたものである。上手に製造した酸乳は、滑らかでとろみがあり、柔らかいヨーグルトそのものである。
しかし時には、カードと乳精が分離している。分離した発酵乳は恰も汁の中に乳腐が浮いた感じになる。飲むときには壜を振って攪拌しないと、均等にならない。それでも、ナツメヤシの実を摘みながら、お茶代わりに呑む酸乳は格別である。

<豆乳ヨーグルト>
豆乳ヨーグルトは、畜乳の代わりに豆乳を原料とするが、醗酵に用いる菌は、畜乳とほぼ同じ菌種が使える。だが、畜乳に比べて豆乳は、糖の含有量が少ない。また哺乳類の乳に含まれる乳糖は無い。従って乳酸菌は育たないかに思えるが、しかしそうでもない。
寒冷地では、冬越し用に野菜を漬け込むが、その漬物に乳酸菌が繁殖する。研究者はこれにヒントを得て、豆乳を活性乳酸菌で醗酵させることに成功し、豆乳ヨーグルトを開発した。ポワレグルト(Pois(豆) lait(乳) gurhut(グルト)と命名し、商標登録されている。
製造上の注意点として、種菌(mother stator)の培養には、牛乳や山羊乳には多く含まれるが豆には不足がちな乳糖(10%程度)を添加することが好ましい。ただ、無糖培養でも、分離しない上質な豆乳カードを製造することは可能だ。ダイエット目的や糖尿病を気にする方は、乳糖の添加は無しで試作してみていただきたい。

製造上の注意点は
1)培養に使用するスターターは雑菌に汚染されてないこと。
2)スターター用種菌は活力のある菌を用いる。
3)雑菌防御対策として、混合菌を使用すると更に安全性が高まる。
4)添加時に雑菌が混入しないよう注意する。

長寿村の試み
運動や外部刺激は、新陳代謝を促し血液循環を良くして、老廃物の除去を速める。また、細胞の再生を促すことから免疫力を高めると考えられている。
運 動と共に重要なのが、毎日の食事である。長年長寿世界一を誇った沖縄県では、女性は現在もなお第一位を守っているが、男性はと言えば、1995年に全国で 4位、2000年には更に26位に後退した。生活の洋風化で、高カロリー食、伝統食離れの傾向が進んでいる。因みに小学生の肥満率が全国1位で、40- 50代の肥満男性の比率は全国平均の約2倍。肥満に飲酒喫煙が加わり、糖尿病、高血圧、肝疾患、肺ガンが増えている。
男 性の短命要因の1つに、中高年の自殺や事故死の増加も挙げられているが、もう一つには、制度の変化も影響しているだろう。かつて沖縄では医者不足を補う為 に、中国が行った裸足の医者に類似した医介補や巡回保健婦、或いは研修医が各診療科を回るスーパーローテート方式などがあった。これらの人達は沖縄の僻地 医療に多大な貢献をした。復帰後は国内法の下で全国統一制度が導入され、固有の諸制度は廃止された。
過 日長野県の病院で、デイケヤーの現場見学をさせていただいた。そこでは農繁期と晴天は通院者が少なく、農閑期と雨天は多くなるとの説明であった。そう言え ば、沖縄県下の最長寿地域、大宜味村や東村婦人会でも、「ここの老人は殆どが自転車にも乗らず、手押し車を押しながら歩き、良く働く」と言っていた。また 食生活改善の基本は「湯通し」だそうで、豚肉もぐらぐら煮てゆがき、脱脂をする。どこの家でも使うポークランチョンミートも湯通し、脱脂。野菜は各人が自 家菜園で自給。その他、機織り、染色、木工、漁、編み物など、各自それぞれが仕事を続けている。また腰のばし体操、歌、踊り(ささいな事でも嬉しい事があ ると踊る)、笑い(笑うに値しない話題でも笑う)、隣人と声をかけ合う、などが日常的に行われていて、地域独特の健康維持習慣となっているようだ。

医食同源を求めて
国や国際機関から派遣されて、アジア、中近東、アフリカ、中南米の途上国に勤務又は訪問する機会が多く、その先々で土着の食材や伝承医療に触れてきまし た。そのつど「医食同源」を痛感し、幾度も身を持って体験する機会を得えました。そこで、各地で見聞した事や知識を基に、臨床試験や引用データーをも加え て、健康にまつわる各地の特筆すべき話題を綴ってみます。広く多くの方々に読んでいただきたいとの希望から、専門的な記述を排しますので、更に詳しい情報 をご入用な方は、直接著者にご連絡下さい。

第1話 ヴェトナム中部高原山岳地
ヴィ エトナム人のルーツは、南から渡来したマレー人と、北から南下して来た華人が主な構成要員で、その居住地域はマレイー南華文化圏と呼ばれる。都会居住者の 殆どはキン族である。従って短期旅行者の目には、キン族の習慣や文化がそのままヴィエトナムを代表するものとして映っているのではなかろうかと懸念する。

地方では多くの民族が独自の伝統文化を守りながら、かつ現代社会と妥協しながら生きている。僻地の集落では同一部族が一集落を形成しているので、部族特性を顕著に示している。
モー ビリゼーションの発達していない山間部の集落は、完全に陸の孤島で、幾世代も同じ暮らしを営みながら、独自の伝統文化を守り、誰にも頼らず、世代を越え て、自らの生活基盤を構築している。そこには民主主義、社会主義、共産主義などなど、ありとあらゆる主義主張が共存し、共栄ながら社会を構築しているよう にみえる。

一方自然に目を移せば、ヴィエトナムの植生は熱帯多雨、熱帯海岸、ヒマラヤ系などの植物が分布している。動物もヒマラヤ系、ボルネオ 系、マレー系と、広範囲にわたる。中部高原山岳地は標高千メートルの高地で、冬は霙が降る。コーヒや果樹園のプランテーションが広がる地帯は、海抜五百 メートル以下の地帯である。

三、四十年前の対米戦争当時、ホーチミンが潜伏していたとかで、いきなり密林の中に滑走路ができ、枯葉剤が撒布され、 地雷がばら撒かれていたらしい。この一、二年間で当地域の交通の便は大分良くなったが、私達が最初に訪れた平成十年は、村から村へ移動するのに、密林の道 無き道を徒歩で二日間かかった。熱帯の密林歩行は視界がきかない不便さだけでなく、蛭や吸血蝿に襲われながら行進しなければならない。足元には崖や切り 株、そして毒蛇や毒蜘蛛にも気を配らなければならない。起伏が多く険しい山道を辿りながら、行き着く村々には、診療所はおろか、巡回医療も無い。住民は、 地元に古くから伝わる伝承医療技術に頼って病気の治療を行っている。お産は、部落に住む経験豊かなとり上げバーさんが産婆役を勤める。

薬源は、身 の回りにある動植物が全てである。しかし、その数の多さ、用途の広さには、ただただ感服するばかりである。現代の市販薬と比較すると、中には薬効を疑う物 もあるにはあるが、殆んどは的を得た使用法で使われている。その一例を、いかに示す。生姜:解熱、鎮痛、消化薬として、煎じ、又は擦り潰して飲むか、患部 に塗布する。下痢なら日に3回、風邪や発熱には生姜と柑橘皮を煎じて用いる。経済的に余裕があれば、野生の蜂蜜か椰子糖を加味する。

ウコギ:関節痛の緩和薬、小児栄養不良や歩行の遅れた子供に、煎じ薬として処方する。
セリ:腹痛、消化促進薬と考えられているが、一日一度は必ず食卓に上る。
その他ヤブコウジ科、フトモモ科、トウダイウサ科、ジャケツイバラ科、イイギリ科、クスノキ科、シカズラ科、ノボタン科、キョウチクトウ科、サトイモ科、タデ科、アカネ科、ツヅラフジ科、キク科など等と広範囲にわたる。

動物では、蛇、熊、虎、鹿、猿、猪などが、漢方薬風に使用される。これらは商品価値が高く、地元消費よりも、部落外への輸出が殆んどである。密猟者が横行しており、生態保存の立場から、狩猟禁止の方向へ向っている。

先住民族の中で最も人口が多いのはバーナー族で、稲作、畑作、小規模菜園や養魚池を持ち、複合的な農業を営んでいる。藁葺きの長屋に約20世帯が協同で居 住し、部落の中央には大きな集会棟があって、祭事、結婚式や出兵式に使われる。時には結婚前の若者達の、逢瀬の場所にもなる。
彼等は松を防虫用薫剤に使用していたが、薫煙は虫除けの目的だけでなく、悪霊を寄せ付けず、また薫煙臭が健康増進に繋がると信じているようで、特に寒い雨季には、一日中松を焚いていた。香りが醸す心理的効果も大で、アロマテラピーにも相通じる、と納得。
あ る日偏頭痛を患う中年婦人が、隣村から来た治療師の施術を受けていた。こめかみに褐色の塗布薬を塗り、更に祈祷をした。時間にして約半時間。婦人は気分爽 快となったようで、笑顔で談話していた。塗布薬の中身は定かではないが、どうも主成分は天然樟脳で、それを豚脂で練り合わせたのではなかろうか、と同行し た保健婦の意見であった。

発熱時に咽喉には、浅い切り傷をつけて瀉血する。瀉血そのものは、世界各地で広く行われている療法で、特に非難されるものではないが、同じ剃刀を複数の人に使用する点や、衛生管理の認識の甘さには肝を冷やす。

水 牛や牛などの大型家畜が死んだ場合には、家畜が家族の身代わりとして犠牲になったと考える。ご馳走や地酒を備え、村の長老が祈祷する。家主が部落住民に酒 を振舞う。部落総出で厄払いをする。死者は居間の片隅に二,三日間安置したのちに、床下に埋葬し、その上に床柱と同じ大きさの丸太を二本乗せる。そんなわ けで、何処の家にも床下には大きな丸太が二本置いてある。
一方、米作と畜産を営む低地定住民のマナム族部落では、狩猟した動物の頭蓋骨を竈の真上の天井に翳して魔除にしている。

山間地の村では、辛うじてカロリーは足りているようだが、食事は穀類や野菜中心となり、栄養が偏っている。海からは遠く隔たり、海藻を食べる機会が無く、山間部落ではヨード欠乏症がみられる。
何処の村にも近代医療設備が無く、住民は伝承医療に頼らざるを得ない。住民の薬草利用方法は殆んど単品利用で、症状に応じて薬草を組み合わせるような使い方はしない。
ただ、地元の村長さん宅で食事をした折、促進と抑制効果を持つ野草を上手に組み合わせた薬膳風の食事が出てきた。

山 里の伝統医療は全てが口承で、何時かは消え去るであろうと懸念している。そんな不安の一方で、彼等は日々の生活の中で体験した新しい知識を基に、新たな利 用薬を発見したりする。できる事なら、今後もヴィトナム中部高原山岳地帯の村人達との交流を絶やさず、彼らの経験と知識を分けて欲しいと思っている。

作 家の大森実氏が1984年に岩波新書から出版した「ヴィエナム以後を歩く」に、ホーチミン市内にある麻薬中毒者に対する治療施設「教育センター」を訪問し た時の様子が記されている。治療法は、鍼、マッサージ、冷水、体操、漢方薬などを併用したもので、まず鍼で痛みを和らげる。次いで、薬無しで睡眠と食事が できるようにする。そこまでできたら、後は習慣を断絶させるように、麻薬を忘れさせる補助をする。物作りや作業をさせたり、好きな音楽を聴かせたり、誰か がそばにいて話し相手になる、などなどであるが、現在も当時と殆ど同じ療法を施しているようだ。ただ首都ハノイ郊外にあるヴィエトナム鍼灸医学大学付属病 院では、電気治療が導入されていた。

 

トウー教授とチャウ教授
両師ともこの国では名の通った教授である。トウー(Nguyen Tai Thu)教授は1931年に首都ハノイに生まれた。現在はヴィエナム鍼灸医学大学の学長、大学付属病院院長、ヴィエトナム鍼灸学会会長等の要職に在る。著 書も数多く出版し、海外講演、国外研修医の指導などと、幅広い活躍を続けている。抜群の知名度を誇り、全国津々浦々まで知れ渡った名医である。
ヴィ エナムでは年輩の知識人は概ねフランス語が堪能で、世代が若くなればなるほど英語人口が多くなる。トウー教授以外の医局の医師たちは、電話をかけてくると き、1名を除き皆さん英語であるが、うんと若くなると英語も話さないので、必定此方がヴィエトナム語を理解しなければならない。その時は痛切に必要性を感 じるのだが、帰国後未だに真剣にヴィエトナム語の勉強に打ち込んでいない。
トウー教授も同世代の知識人同様に、綺麗なフランス語を話した。私が教 授を初めて訪問した時は、用心の為にヴィエトナム語と英語を通訳してくれる方を連れて行ったが、自己紹介が済んで、お互いにフランス語で対話できると知っ て、教授は通訳抜で病棟を案内して下さった。患者の殆どは、怪我や慢性疾患で入院治療を受けているようであった。特に希望して、薬物中毒患者の病棟を見学 させてもらった。若い青白い気の弱そうな青年が、怯えながら私の質問に受け答えしていたのが、今でも忘れられない。常時5〜7名の中毒患者を受け入れ、1 週間で退院させる、との説明であったが、性急過ぎて完治しない内に追い出しているのでは?と一瞬思ったが、経験豊かな名医ならではの技能かと思う事にし た。

チャウ教授はホーチミン市人民委員会公認のヴィエトナム伝統医療の研究に従事する臨床家である。チャウ教授の療法は、中国医学の古典思想であ る霊枢に記載されている「天人合一」の思想に基づいているが、実際の治療に関しては、時折インドやチベット医学の療法が顔を覗かせる。教授の考え方による と、顔は全身の症状を表す。同じ様な考え方はインドの伝承医療にも記されているので、考え方そのものは目新しくないが、これを鍼治療に応用している点が、 ユニークな存在である。まず眉が腕の部分を示し、額が鼻より上の顔面部を占める。鼻は胸部、上顎は腹部、下顎は足を示している。足裏、耳、手や指で全身の 徴候を診断するのに似ているが、何れも経験を必要とする特殊技術で、誰でもできる技ではない。チャウ教授の病院では、治療費は原則として無料。ただし、経 済力があり、支払い可能な患者は自分の資力に応じて寄付をする。治療技術の取得を希望する者には、有料で技術指導も行う。技術取得に関する資格はそれほど 厳しくは無いらしく、原則として強い意志のある者を受け入れているようだ。特に薬物中毒患者の治療家養成には特別な思いがあるようで、ことのほか熱心な様 子であった。

ここで私見を述べさせていただくならば、伝承医療を治療に応用するに際して、果たして、中国系、インド系、アラブ系、ギリ シャ系などなど系統分類する必要があるだろうか。人間はその土地土地で地域環境に適応すべく、創意工夫する。また世代を受け継いでいく最中に、地域環境に 適した体型や遺伝情報を取得する。アメリカインデアンの間で問題になっている糖尿病遺伝子や、サハラ住民の標準体型などが挙げられる。人間は日々の営みの 中で、それぞれの知識と経験を積み重ね、時には病や災難と闘いながら、世代を受け継いで行く。病や災難を防ぐ知恵は、環境や人種の違いなどから普遍的でな い方法があっても当然である。居住地の自然環境によって病気の種類や頻度が異なり、薬源の生息も影響を受ける。また同じ薬源でも、収穫後の処理方法により 薬効に差が生じる。
ヴィエトナム伝統医療は交易により伝わったと言われているが、何時頃どんな形で伝わったかは定かでない。ただ野生動物の中に は、ヒマラヤ、チベット、ベンガル、ボルネオ、マレー、中国大陸等々に共通するほ乳類が生息している。インドシナ住民の部族ルーツなどから推測して、この 動物種の多彩さは、人間の移動や交流によってもたらされた可能性は否定できないであろう。しかし当地の伝統医療が、他民族に共通する部分を持つことについ ては、チャウ教授が主張するように、当国独自の知恵なのかも知れない。場所を異にしながら、異なる人同士が全く同じ事を同時に思いつき、同じ行動をとる事 も珍しくは無いのである。
ここまで5月7日投稿

第2話 ビルマの話

仏教国ミヤンマーでは、男児として生を受けると、皆一 度は仏門に入る。従って精神の拠り所は全て仏教を機軸にしている。第一次産業従事者の多いお国柄、自然との結びつきが強く、薬草利用も盛んで、薬草療法専 門学校で、採取・保存・利用方法などに関する教育をしている。日本の大学との学術交流もおこなっているとの事であった。
祈祷師は原則として禁じら れてはいるが、地方住民の間では人気が高く、占いと祈祷師が混然一体化していて、祈祷師なのか占い師なのか判別は難しい。日本で1年間研修をした女医さん がいて、その家族から結婚相手が見つからないとの、悩み相談を受けた。冷やかし半分に祈祷師兼占い師を訪ねた。いわく、「女医には前世に日本軍人の恋人が いて、彼は今でも独身で彼女を待ち続けている」。話はだんだんと、80年代初期にタイ国で大ヒットした日本軍医小堀とタイ女性との悲恋物語「メナムの残 照」に似てくる。
この国でも日本の「おしん」がヒットしたのだから、隣国のメロドラマが受けて、いつの間にか住民の潜在意識に残ったのではなかろ うか。この女医さんが来日中に、偶然にも我が家で「メナムの残照」のビデオを見た。「占い師の話、家で見たビデオの筋書きに似ているね!」「私もそう思っ た」と彼女も微笑んだ。
葬式は、死亡認定後1週間以内に行わないといけない。それ以上過ぎると、死者の魂は死体を離れ浮遊して、何時までも成仏で きなくなるそうだ。僧侶がお経を唱えながら霊を呼び出す。その瞬間僧侶に霊が乗り移り僧侶が気絶したり、高熱を発したり、戸や窓がガタガタと揺れたりする という。
日本では、財布に蛇の皮を入れているとお金がたまる。蛇の夢をみたら、誰にも言わずに朝早く起きて町を回るとお金を拾う。などと言うが、 マレイシアでは生きた魚や鮮魚の夢をみればお金が入り、卵や楕円形の物はお金が出て行く。右掌が痒くなるとお金が入り、左掌が痒くなれば金が出て行く。握 手して手を離す瞬間に相手の掌を掬うように撫でると相手の運を自分の手に移すことが出来るといわれている。

第3話 砂漠・民のいとなみ
砂漠とは年間降水量200mm以下に対して蒸発散量が2000mm近い乾燥、半乾燥地帯である。そんな渇いた大地にも人は住み、日々の生活を営んでいる。
大干魃の怖さは、幾世代かけて成長した樹木が数ヶ月間で枯れてしまう。一度枯れた樹木は再生する事はなく、自然の植生が失われて忽ち砂漠化が加速する。
砂 漠化の問題は一見、そこに住む住民の問題のようにも見えるが、地球温暖化に伴う気候変動が影響しているとも言われている。住民は煮炊き用に薪炭材を消費す るが、人口増加と相まって燃料に供される薪炭材消費量は増加の一途を辿っている。今回は、かつて勤務したサハラ砂漠での体験を中心に、砂漠住民の営みを垣 間見つつ、酷暑と渇いた大地に生きる住民が培った知恵を紹介したい。
砂漠では、最も暑い時には四十五度以上にもなる。暑いと言うものではない、 「痛い」光が肌を刺す。針や棘で刺すような痛さである。焼けるような痛みは、その後におとずれる。発汗はするが、汗は体外に出るや否や忽ち蒸発し、体表に 白く小さな縞模様の痕跡を残す。最暑期の昼過ぎに屋外を歩くのは外来者で、地元住民は誰も外出しない。駱駝も羊も木陰に身を寄せ合って、寝そべっている。 日が蔭り暑さが和らぐと、途端に賑やかになる。身を隠していた生き物が、涼を求めて一斉に屋外に繰り出す。
熱帯多雨地帯の夜と異なり、砂漠には漆 黒の闇が無い。天蓋に張り付いた星明かりが地面に反射し、物の識別ができるし、微かに影ができる。仰向けになると、百八十度に星が輝き、まるで自分が星の 球体の中に浮いたような感じがする。月夜になると地平線まで見渡せ、月焼けをしないかと心配するほど明るい。夜は気温が急激に降下するで、暖をとる期間も ある。赴任当初、昼の暑さに辟易して軽装で寝込み、夜半に寒さに震えて目覚める事もあった。また、大干魃の最中に、北欧医師団に同行してサハラ砂漠を横断 の途中、自動車が故障して野宿するはめになった。砂地に人丈半分ほどの縦穴を掘り、塹壕に身を沈めて風を凌ぐが。親切な村人が生きた羊を入れると暖かいと 言うので、羊と同穴で寝る事にした。確かに羊の体温が伝わって暖かいが、急に鳴いたり、息を吹きかけられたりして、熟睡できなかった。
二カ月間の 雨季を除いて、野菜を採取する機会は無く、食料は全て家畜に頼る。肉は殆ど生焼けで食べる。つまり、血液からもビタミンを採るし、内容物の入った臓物を煮 て食べることで栄養を摂る。解熱には駱駝の尿を飲ませる。大丈夫かと若い医者に尋ねると、「昔からの風習」と答えた。

(1)
搾乳した羊の 乳を瓢箪の容器にいれると、3時間後には醗酵酸乳になる。普段は乳を飲み、ナツメ椰子の実を囓りながら生活している。彼等も、極度に体力を消耗した者に は、生きた羊や駱駝を瀉血して、生血を即席の栄養補給剤として飲ませる。砂漠の民は動物を粗末にしないし、大型家畜を賭殺しない。遊牧民にとっては家畜が 財産であり、所有家畜頭数が富の象徴である。
家畜の用途は、結納、諍いの調停、時には犯罪の罰金の代わりにもなる。そんな大切な財産であるが、飢 饉の中にいる村民は我々調査団に精一杯のもてなしをしようと、隣村から家畜を運んできて、夕飯をご馳走してくれた。また人気の無い路肩に暫く停車している と、どこからともなく人声がする。遙か彼方に点のような影が次第に姿を現し、大丈夫か、何か困った事は無いか、と尋ねてくる。
さて、私は野菜不足 を補う為に、毎日一握りのささげ(豆)を砂に埋めて朝夕散水する。すると、三日程で砂の中にモヤシができる。モヤシは忽ち緑色に着色し生臭くなるが、それ でも周年採取可能な緑黄野菜であり、炒物、ハンバーグの混和材として味は抜群、客をもてなすにも貴重な食材であった。
ローマからサハラに転勤した 村は、チャド湖に近いバガ村であった。言語はハウサ語で村人達の挨拶はまず、「やーや」から始まり、家族や家畜の安否を尋ねるのが礼儀とされている。「こ の忙しいのに!」と思いながらも、地元の有力者と出会ったなら、長い長い挨拶を交わす。大方相手は、以前に聞いた話を繰り返す。
予防接種の案内は ラジオ放送、実施は青空市の日に、仮装と鳴り物で呼び込みをした。また、映写会の幕間に、掛け合い漫才や寸劇で薬源の採取・保存・用途を教え、さらには村 の衛生普及員や伝統的助産介助婦の役割を紹介した。住民参加の素人芝居は、口笛、雄叫び、拍手、笑いありで、映画にも劣らぬ大盛況だった。
手を洗う。幼児に煮沸殺菌した水を飲ます。たったこれだけの事だが、普及は至難の業であった。普及率の良い家庭では、母親がある程度理解力があるか、義務教育上級学級に通う女児がいた。どうも、子供が親を教育するようだ。
ニ ジェール河湖畔では、ハマターンが最大になる年末頃の新月に闇夜が訪れる。闇は宵から十時頃までの間で、深夜になると再び満天の星空に戻る。さて、その闇 の時間帯に、黄泉の国から先祖や家畜が訪れる。そこで急激な人口増加となり、交通混乱を助長する。無灯火車が多いことも相まって、交通事故が多発するので はないか、と我々はふざけているが、信仰心の厚い家庭では、闇夜には余分な食事を準備し、火を焚いて先祖を迎える。
東北東方向から吹く季節風のハ マターンが、砂漠から微細な砂塵を吹き上げ、太陽を翳める。太陽光が地上に到達しないから、日中も気温が上がらない。未明には3、4度まで降下する。低温 に慣れていない住民の多くは、風邪、マラリア、下痢、神経痛などを煩う。時にはコレラが流行する。一年で医療従事者が最も多忙な時期である。一方この低温 期には、野菜栽培ができて久々に生鮮野菜にありつける。

(2)
サハラは一部の東南アジアや南米アマゾン地帯の僻地と比較すると、現代医療 が浸透している。旧フランス植民地の影響からか、首都では仏、伊、独、スカンジナビア諸国からの援助で、医療設備はまあまあ整備されている。ただ、機器の 保守点検技術の脆弱さが禍いするのであろうか、何れの機器も短命で、一度故障すると忽ちお蔵入りか、展示品と化す。
オンコセルコスはブヨが溜まり 水に産卵し、それを飲んだ人の体内でふ化し、血液で運ばれた虫が水晶体を喰い、人間を盲目にしてしまう西アフリカの風土病である。これまで、諸々の対策が 講じられてきたが、今でも根絶には至っていない。煮沸するか、ブヨが飛来しない深層地下水を飲用すれば予防できる事は知られている。
サン・テグジュペリ著「星の王子さま」の一節を引用するまでもなく、砂漠の地下には帯水層が広がって水資源には事欠かないが、井戸が少なく、慢性的な水不足である。水汲みは女子供達の重要な仕事で、それに費やす時間も大きい。
サ ハラでは祈祷師と占い師が混在して、職域や役割分担が明確でない。占いには、太陽、風、月、渡り鳥、火炎、煙、鏡、水晶球、木切れ、骨などが使われる。霊 媒師の語りには、黄泉の国と現世の境が無く、生き生きとした語り口に説得力を感じる。祝祭事には、太鼓に合わせて手を叩き、足で大地を踏み鳴らし歌い踊 る。単調な調べではあるが、躍動感に満ち溢れている。祈祷師の活躍舞台は、雨乞い、占い、葬儀、厄除けなどである。天変地異を予言するような大きな力は要 求されない。昔は雨乞いに処女を生け贄として捧げたと言われているが、今日では鶏か子羊を備える。
呪いとしては、他人の妬みを除ける慣わしとし て、自分の小便をかけるなどの風習がある。私自身も、現地の風習に従って、日本から届いた新車に小便をかけ、厄除けをした。現地では、回教やキリスト教と 伝統的なアミニズムが、調和しながら住民生活を支えている。砂漠では干魃の後に屡々豪雨が起きるが、祈祷師の力が強すぎたか、神様が計算間違いをして、過 剰降雨をもたらしたと考えられている。
ニジェールの首都ニアメ市で、面白い昔話を聞いた。物語は河の水神、湖畔の神、渇いた砂漠の神が自分の出身 地の自慢話を始めた。各神々が自分の再生を語っているが、一番寿命が短い湖畔住民は人生二五年。水神の住民は三十年。砂漠神三十五年。察するに、乾燥した 砂漠は病原菌が少ないので、偏食に陥りがちな危険はあるが、寿命は長い。一見過酷な生活環境下にある砂漠の方が、絶え間なく病源に曝されるよりは長生きで きるようだ。伝承民話の数値が統計上の数値と一致したのには感激した。
砂漠の植物は、何れも乾燥に耐えながら再生を繰り返し、世代の継承を営んで いる。稲科植物は二,三回の降雨で発芽し、二週間で成長し、三週間で結実する。豆科の樹木は雨期に繁茂し、乾期には落葉し、偽枯化する。中には葉を持た ず、幹に葉緑素を蓄えて、同化作用を営む植物もある。砂漠の植物は、棘や毒で動物からの食害を免れるので、何れもが薬効を持つ、と言っても過言ではない。

(3)
乾燥地で花を咲かせる植物の殆どは、甘い芳香を放つ。植生の乏しい地帯で、昆虫を引き寄せるには、風に匂いを乗せて遠くまで送り、自分の所在をアピールする。
砂漠では地表面を大気が流れ、匂いも音も遠方まで届けられる。昆虫は地表を這う風の中に匂いを嗅ぎ、上昇気流に乗り、視野には入っていない花の香を求めて飛行し、花密を採集する。帰路は高度を下げ、追い風に吹流されて巣に戻る。
砂漠の糖源は、棗椰子、無花果、粟、稗の類のホニオ等々、多様である。藪や高木の枝先に、野生蜜蜂が巣を作る。蜂蜜大好きなフランス人達でさえ、これほど上手い蜂蜜は無い、と太鼓判を押す。砂漠でも部分的には湿地帯が広がり、潜在食糧生産力の高い豊潤な大地が残っている。

<地元で用いられる代表的な薬用植物とその用途>
1. アカシア アルビダ:樹枝は20-30%のタンニンを含む。樹脂、実、葉を煎じ、風邪、歯痛などに効く。難産後に、樹皮エキスを椰子油に混ぜて飲む。その他、皮膚に塗布。根を煎じると肺炎に効く。その他のアカシア樹の用途も、ほぼ同じ。
2. バラニテス:サポニンを多く含む。ギニア回虫(Dracunculus medinensis)に有効。
3. ポッシア:煎じて神経痛、梅毒、ハンセン病に効くと言う。
4. バオバブ:果実はビタミンB、Cに富む。解熱、下痢、喘息など用途が広い。
5. 野生メロン:解熱、駆虫、健胃に用いる。
6. 団扇サボテン:果実は腸内浄化。茎は腱胃、解熱に用いる。
7. その他:詳細は下記の出版物をご参考下さい。
@GTZ:砂漠・サバンナの植物
Aニジェール国政府刊行物
B砂漠・民のいとなみ(株)ジュステム 並里(1998年)。

第4話 海の民
海洋面積は三億六千百五平方キロで、全地球上の約70%を占めている.海洋と陸地の面積比率は、概ね2,5対1である。容積は約十三億七千立方キロ。
海水の主成分は食塩(NaCl)で、78%を占め。他にはマグネシューム(Mg)、カルシューム(Ca)、カリューム(K)塩などが溶解している。
あらゆる生物は体内に水を蓄え、生命機能を維持している。殆どの生物の祖先は、水棲である。海から陸地に上がり、動物は肺呼吸をし、植物は発芽、開花、結実のサイクルを繰り返して子孫を残していく。「母なる海」には、生物の起源、進化に関った歴史が秘められている。
海は、漁業、海運、海底資源(鉱物資源)、水資源、自然エネルギー源、観光、レジャーなどと、多角的な利用価値を秘めている。日本国内でも、海洋生物を利用した薬源の研究が進められていて、毎年数点の新製品が紹介されている。
漢方医学は、本草、神農に源を発するところから、海産物を薬源として治療に応用する機会は少なかった。それにひきかえ、海産物を薬源にして海神を崇める人々は、島礁国、沿岸漁民、海運国民に多い。
日 本では古くから海人草を採取し、その主成分であるサントニンを駆虫剤として利用した。食用には、天草、海苔、昆布、アオサ、モズク、ヒジキ、キリンサイ、 松藻などを利用してきた。欧米諸国でも海藻を食料や飼料に利用しようとする試みはあるが、何処の国も日本ほどは海藻を食用にはしていない。ただ、藻場は稚 魚や貝類の隠れ家であり、産卵場や餌場でもあることから、乱獲を慎み、再生可能な範囲で収穫をしないと、資源の衰退に繋がりかねない。
近年沿岸で は生活廃水の流入により富栄養化が進み、アオサの異常繁殖を招き、それが腐敗して悪臭を放つという公害を引き起こしている。或いは農薬が沿岸に流れ込み、 沿岸の植生を破壊して磯焼けを招いている。沖縄以南の海では、陸上での建築造成により泥土が流出して珊瑚を窒息死させるなどの環境問題が後を絶たない。

さ て話を本論にもどして、フランスではタラソテラピーと称して、塩水風呂、海藻風呂、海泥パック、海水浴、潮風にあたる、潮騒を聴く、魚群の回遊を見る、な どの療法がある。抗生物質が発達しなかった時代には、欧州各地から温暖な気候の地中海沿岸へ療養に来た。以前勤務した地中海南岸のチュニジア共和国やモ ロッコ王国は、現在も欧州の避暑や避寒地であるが、観光客に混じって患者集団も大挙療養にやってくる。首都郊外を歩くと、古めかしい療養所を所々に見受け るのは植民地時代の遺物であろう。
疾患は夫々異なるが、治療目的で医師や看護師同伴で訪れる。日本で言えば転地療養の部類だと思うが、彼らは彼らなりの療法を主張し、治療法にも特別な理由があるようだ。行動も独自性を確保し、一般観光客とは一線を画している。
地中海では5月になると、大西洋を回遊していた黒マグロがジブラルタル海峡を通り、産卵場所を求めて穏やかな地中海に入ってくる。沿岸にはマドラグと呼ば れる、古代から受け継がれた大がかりな鮪定置網がしつらえてある。鮪は沿岸漁師達にとっても魅力的な獲物で、夫々が工夫を凝らし何とかしとめようと躍起に なる。
輪切りにした新鮮な鮪をステーキにして塩と胡椒で食べる。鮪のオリーブオイル漬けは美味である。玉ねぎをスライスにして合えると更に味が引 き立つ。地もとの漁師達は牛肉、鶏肉、鮪も何故か赤ワインである。此処では魚に白ワインということも無さそうだ。鮪漁期には日本から「とろ士」と称する鮪 鑑定士が訪れる。「とろ」と鑑定すれば、氷蔵して直行便で空輸するのだそうだ。
地中海の漁期は鮪漁を皮切りに、鯖、鰯、イカ漁と続く。一部には近代的なまき網やオッタートロール(底引き網)漁などもあるが、漁獲量では以前変わらずランパラと呼ばれる集魚灯漁法が一位を占めている。
日 本のイカ釣り船や、フィリピンのバスニグ漁は集魚灯が本船についている直接照射法であるのに対して、ランパラは一人乗りの小舟に発電機を積み発電し海面を 照らすか、またはカーバイドを焚き照明する。一網上げ当たりの灯火時間は2、3時間である。本線との交信は一切無く、頃合いを見計らって本船が集魚舟に接 岸し、網の端を渡し、魚群を巻く。極めて経済的で効率的な漁法である。
時々せっかく集めた魚群にイルカが侵入して、魚を追い払う。「くそ、撃ち殺してやる!」と船長は水面目がけて自動小銃で威嚇射撃をするが、まぐれにしても撃ち捕らえたのを、見たこともなければ聴いた事もない。

ガー ナの首都アクラから西へ20km余り、海岸から400q内陸に入った村に立ち寄り、村長に民族の踊りを見せてくれないかと頼んだ。自分は上手に踊れないの で、近隣の婦人達に踊って貰おうと心安く引き受けてくれた。1曲、2曲、3曲と続き、それに伴う踊りが披露されたが、どうも想像していた踊り方とは違う。 本来、民族の踊りと彼等の仕事には関連性があるはずなのに、そこの村の踊りは農耕民の踊りでもなければ、狩猟民の踊りでもない。5回目の踊が終了した時点 で、休止してもらった。どうも、ハワイのフラダンスに似た振り付けが多い。フラダンスよりは個々の動作と間繋ぎが早いが、随所に類似動作が観られる。村の 長老に村の沿革を訊ねると、昔海岸で津波に襲われ、この地に移住して来たとの報である。なるほど、なるほど。
波静かな沿岸漁民の踊りには、波の動きと、一日中吹く微風が椰子の葉を揺らし、さらさらと擦れる葉音を奏でる光景が踊りに投影されている。フラダンスやフイリピンのティキティキは、そんな雰囲気が感じられる。
同じ沿岸漁民でも、珊瑚礁やラグーン、湖沼漁民の踊りの中には、磯に戯れる小魚を追う人々の姿が投影されていて面白い。琉球舞踊の「たんちゃめ」などが正 しくその例で、チャカチャカしながら、軽快なカチャーシーのリズムに乗って、うるめ鰯かキビナゴ或いはシルバーサイドなどの小魚を掬い、それを速く売りに 行く動作が織り込まれている。コマネズミの動きを連想させる、ちょこまかと細かい動きを繰り返す。
衛星を利用した気象観測技術の進歩、魚群探知 機、網高さ計などの発達は魚を探すのを容易にしたが、猟や漁は偶然性が高く、また、出漁は天候に左右され、魚の回遊は気象の影響を受けることなどから、狩 猟民は昔も今も海神、山神を恐れ崇める気持ちが強く、祭事や礼拝にはことのほか熱心である。

伝統的な漁村に行くと風見、風速、風形、波形、潮の流 れ、潮目、魚群の移動などの自然現象を読み取る能力を持つ老人が一人や二人はいる。回遊する魚群を表す漁師言葉に、鳥つき、島つき、ねつき、木つき、しい らつきなどがある。鳥つきとは、移動する魚群を目当てに上空を鳥が群れて旋回する。島つきとは、島影に魚が身を潜めるかのように集まる習性があり、漁師は そのような場所を漁場にする。
ねつきとは、岩礁やリーフを意味するようで、浅海大陸棚上に海底から隆起した地形上に魚が群れる。木つきとは、流木 などの下に群れる魚の習性を言う。木つきの応用がフイリピン国ミンダナオ島で古くから用いられているバヤオである。それは竹の筏と同じで、海上に浮かべて 影を作り、魚を集める方法である。浮き魚と称される表層を泳ぐしいらなどの下かつおが泳いでいるケースが多く、漁師達はそんな呼び方をする。南太平洋、バ ヌアツ島に住むチャーリー老人は一見何処にでもいる太った老人であるが、彼は鯨と対話できるらしく、鯨を騙し毎年島に鯨を誘導する。
私達が考える 漁民は沿岸居住者を連想しがちであるが、陸上から海上にせり出した高床式住居で生活をしている人達もいれば、水上に筏を浮かべ家屋を建築している民もい る。一方、香港、マカオ、タイ、カンボジア国などには一年中船上生活を営んでいる人達もいる。家財家具一式船に積み、その上、更に豚や家鴨などの家畜まで 同船している。
水上生活者相手に小商いを営む商人もいて、船から出した棹の先には代金が結わえてあり、商人は代金引換で品物を渡す。
水上 生活者の最大のリスクは波浪である。台風の度に人災事故が起きる。それにも関らず今日もなお水上生活者がいるのをみると、制約の少ない海上交通、干満を利 用した自然排水、地代の要らない気安さ、漁労機会の多さ、漁獲物の処理の容易さなどなど彼らなりの便利さをエンジョイしているのだと思うが、なんと言って も海へのアクセスの容易さが最大の魅力だろう。じめじめした一見不衛生に思える環境下でも、病原菌を媒介する昆虫が少なく伝染病の罹患率は低い。しばしば コレラ騒ぎが起き、集落中が大騒ぎになるが、総じて経口伝染病に関しては海水で洗い物をする事もあり、陸上居住民よりは罹患率は低い。

記事掲載日:2006/05/12(Fri)


利子さんの譜を読むシリーズ(NGO小冊子:ニルヴァーナに掲載されたものより) 

<利子さんの「譜を読む」お便り>  ニルヴァーナ10号より
まだまだモーツアルト!
前回の続きで、さらにモーツアルトにアプローチ。
ま ず曲の構成については、20代前半まで弦楽器出身的な感覚の作風でした。というのは、音の流れが、隣の音への移動を繰り返すものでした。美しくはありまし たが、チマチマしています。それが20代後半に、打楽器出身的に変わりました。音は遠く離れたポジションに飛んで、位置を取るようになります。作風は、 「立体的、大胆、骨っぽい」と、こんな性質が加味されました。どうして急に変わったのか不思議に思い、彼の人生を調べてみました。
1781年 (ウイーン、26歳)、モーツアルトはプロイセン大使だった貴族と知り合いになり、この貴族の所有していた、ヘンデルとバッハの楽譜のコピーを見せてもら える事になります。そこで毎日曜の正午と決めて通ったり、借りたりすることができました。バッハの作品を目にしたモーツアルトは、「目からうろこ」だった ハズです。と云い切る根拠に、バッハとモーツアルトの「頭脳回路」が似ていることが挙げられます。バッハは音符を、「左右」「上下」の位置を逆に並べてイ メージすることが得意でした。モーツアルトも逆さ言葉が大好きだったので、バッハを見てヒントが得られ、アイデアがいっぱい浮かんだことでしょう。何事 も、「先達はあらま欲しきことなり」です。この形の頭脳について、思い出すことがあります。レオナルド・ダ・ヴィンチが、鏡に映したときやっと判読できる 本を残したそうですが、三人とも左右、上下の意識を、円にまで置き換え可能なのでしょう。

<利子さんの“譜を読む”お便り> ニルヴァーナ9号より
作曲家の中で最高の人は誰? それは、モーツアルト。理由は、以下の3つです。
@ オペラを作った、
A 短い生涯で、全分野に作品を残した、
B 「譜を読む」の見地から作曲の段取りがいい。
<解説>
@  オペラについて:総合芸術であるオペラを作りたいと、作曲家なら誰でも思うようです。バッハは国外に出たことがないせいか、一曲もなし。そのライバルの ヘンデルは、イタリア滞在の経験を生かして、オペラあり。ベートーベンは、「フィデリオ」1曲だけ。しかもそれを、10年かけて手直ししています。ショパ ンは、友人の勧めにもかかわらず、もっぱら観客にまわりました。モーツアルト以外で現在上演されている曲を持つのは、ワーグナー、ヴェルディ等々ですが、 彼らはいかにもオペラ専門の作曲家。
A について:36歳と短い生涯。そのうち約14年を演奏旅行に費やし、家に居る時間が少なかったにもかかわらず、多くの曲を残し、また彼には不得意分野もありません。
B 「譜を読む」から:<その1>
作 曲では、場面の変わり目、今まさに内容が変わろうとする時の扱いが、特に重要です。手間取ると、長くなってすっきりしません。モーツアルトは、これをほと んど1音で、「スポット」の手際で、様子を変えてみせます。その上、この音が、ハズレになることはないのです。モーツアルト以外でこの芸当が出来る人はい ません。大方の作曲家は、作るのより仕上げに苦労します。モーツアルトの場合は、「こんなんで、いいんちゃうの〰」的ですが、失敗 ナシ。だから短い生涯で、大量の作品が書けたのでしょう。作曲が上手なモーツアルトの曲は、「読む」ではなく、自然に「読まされてしまった」となります。
(次回、<その2>に続きます。)                 桑原利子

<利子さんの「譜を読む」お便り> ニルヴァーナ8号より
読むのを止めた曲  シューマン(ドイツ)のパピヨン(蝶々)
私はいったん曲を読み始めたら、必ず読み終わることにしています。しかしこの「パピヨン」だけは、途中で止めました。いくつかの章から成っていて、あと1,2曲を読むと終わるところまで来ていたので残念でしたが。
曲 を読む時は、先ず全体の流れを決めます。次はメロディーの1音ずつにくっついて行き、作曲家と同じ精神状態になって、何を考えたかを「読み」ます。「パピ ヨン」でも、シューマンが跳ぶところでは、私も一緒に跳びたかったので、何度もその音に向かおうと試みましたがだめでした。一緒に跳んだら、私の心がパー ンと壊れてしまいそうで、怖いのです。胸苦しい気持ちになり、中止と決めました。それでシューマンについて調べてみました。
1810年ドイツ生まれ、16歳の時、父親が精神に異常を来して亡くなります。30歳くらいから、シューマンも徐々に病み始めます。40歳頃には幻覚を見るようになり、42歳でライン川に身投げして、病院に入院します。46歳で死亡するまで、仕事はずっと続けました。
「パピヨン」は21,22歳のころの作品ですが、私にはこの時でももう既に異常に思える音使いです。37歳の「飛翔」の中では、熱心に舞い上がって跳ぶ練 習をします。しかし「飛翔」が可能となった時に、跳びませんでした。38歳の「トロイメライ(夢)」には、「自分は飛び立つことが可能であっても、中空あ たりを眺めているのが好きだ」と書かれています。ベートーベンとは正反対の、最後にはしりごみする性質でした。16歳で父親の死から受けたショックは大き く、「いつ自分は発病するか」といつも不安でした。それを思うと無理も無いことでしょう。このシューマンも、恩師の娘クララと結婚する時は、勇敢でした。 結婚を阻む恩師の同意が得られないので、裁判所の許可を求めてまで結婚にこぎつけます。お蔭様?で、美人ピアニストのクララは子だくさん、共稼ぎで苦労し ます。これに同情してブラームスがクララに親切だった話も有名です。
桑原利子

<利子さんの「譜を読む」お便り>  ニルヴァーナ7号より
「お化けの出る曲はど〜れ」 ショパンのポロネーズ40の1,2
先日、ショパンのこんな逸話に出会いました。
「あ る晩ショパンが自分の演奏に陶酔していたら、ポーランドの貴族が男女一組で一列になり、彼の部屋に入ってくる幻想に襲われた。この幻影があまりに真に迫っ ていたので、恐怖のあまり部屋を飛び出し、友人の画家の家に一晩泊めてもらった。」その曲は「イ長調40」(軍隊ポロネーズ)または「変イ長調53」(英 雄ポロネーズ)のどちらかといわれているが、ショパンのいない今では分からない・・・。それでは、と“いっちょかみ(一丁前)”の私メが、読んで決めるこ とにいたしましょう。だって私の仕事は、「譜を読む」ことですから。
結果: 40には「1」と「2」があり、「2」の方に亡霊が登場しました。亡霊たちは、当時(1800年代)のポーランドの凋落を嘆き、あの世から戻ってきて扉を 叩きます。扉は開かれて曲が始まります。憂鬱な顔の亡霊達ですが、民族のリズムで一曲踊ると気が晴れたのでしょうか、一ヵ所に集合し、ゾロゾロとまた黄泉 の国へ帰っていきます。40の「1」を弾いているうちに、「2」の方の幻影に襲われたものと決定しました。
我々も思いがけずに仕事がうまく行った時など、お風呂で鼻歌が出ます。その曲が、年とともに演歌だったりするものです。民族のリズムは、その民族を和らげたり、力づけたりすることができるのでしょう。
参考:当時ポーランドは、ドイツ、ロシア、オーストリアに分割されて自主権を奪われていました。「ポロネーズ」とは、ポーランド風の、男女の貴族が2人1組で、縦列行進するときの伴奏音楽。

<利子さんの「譜を読む」お便り>  ニルヴァーナ6号より
亡き女王のためのパヴァンヌ ラベル作(1899年)
〜こんなことが書いてありました〜
今回は読んでいるうちに、不思議な気持ちになった曲の話です。
曲 というのは、“提示部→展開部→再現部”という“流れ”で作られていますが、この曲の再現部を読んでいる時、臨死体験とでも言える様な気分になりました。 高音のメロディで、伴奏が揺れを含み、美しく、優しい曲ですが、最後の3小節で、「パヴァンヌ(スペインを起源とする、孔雀に似せて踊る宮廷舞曲)」に合 わせて、孔雀のように羽を大きく広げ、舞い上がって昇天してしまいます。そんな結末になる曲を読んだことがないので、私はしばらく唖然としていました。 が、同時に、インパクトの強さから、これは歴史上実在した女王を描いたもので、彼女への鎮魂歌だと気付きました。調べてみますと、ベラスケスの描いた「女 王マルガリータ」を見て霊感を受けたラベル、24歳の作品でした。このマルガリータとは、謎解きで有名な絵「ラス・メニーナス」(ベラスケスは一体誰の肖 像画を製作している最中か?)の中心で、女官達にかしずかれている少女です。スペインのハプスブルグ家は死に絶えますので、最後の女王です。彼女は13歳 で、オーストリア、ハプスブルグ家に嫁ぎ、22歳で1人の女の子を残して亡くなります。
ラベルは何故、絵から霊感を受けたのでしょう?
1 ラベルの母はスペイン人でした。(彼はマザコンで、一生独身)出生地がスペイン(3ヶ月まで)で、スペインびいき。
2 この曲の内容は、「良いことばかりのハズのマルガリータが、挫折を味わい、孤独の中努力して成長する」と云うものです。これは当時、フランスの音楽界でラベルが置かれていた状況そのもの。
3 ラベル自身の懐古趣味も手伝って・・・と、こんなところでしょうか。
ベ ラスケスは肖像画を描きながら、マルガリータの将来の姿が予見できたのでしょうか。そしてラベルにもそれが見て取れたのでしょうか。 一流の芸術家の霊感 は、不思議な力で見る者の心を打ちます。最後に、マルガリータは何の病気で亡くなったのかをスペイン大使館に尋ねましたが、「そこまでは分からない」の返 事でした。                 

桑原利子


記事掲載日:2006/03/12(Sun)

機関誌ニルヴァーナ(NGO)に掲載された「クマさん日記」シリーズより抜粋

<モーターサイクルダイアリーズ> ニルヴァーナ11号のクマさん日記より
今回は、最近観た映画のご紹介です。製作総指揮者はロバート・レッドフォード。監督ウオルター・サレンス。主演エル・ガルシア・ベルナル。
カ ストロを支えてキューバ革命を成功に導いた、アルゼンチン生まれの医学生チェ・ゲバラ(Che Guevara)、本名 エルネスト・ラファエロ・ゲバラ・デ・ラ・セルナが主人公。物語は1952年23歳のゲバラ青年と親友のアルベルトが、今にもバ ラバラに分解しそうなオンボロバイクに乗り、南米大陸縦断の旅に出るところから始まる。小さな交通事故やバイクの故障で予定の立たない旅が続く中、途中で 動かなくなったバイクをスクラップとして売り払う。以後は、文無し無宿の徒歩旅行。それでも二人は南米大陸縦断を諦めずに前進し、ついに1万キロを踏破す る。
映画では二人がハンセン病療養所を訪問し、医療奉仕活動をする光景が二度ほど出てくる。ゲバラは患者と職員が河を挟んで対岸にあるのに憤慨 し、お別れパーティーの夜河を泳いで渡る。途中持病の喘息が再発してあわや溺れそうになるが、何とか対岸にたどり着き、患者は勿論、職員達からも祝福を受 ける。またある地方では、土地を奪われて鉱山労働者となり、過酷な労働を強いられる原住民たちの悲惨な運命にであう。
行く先々で社会の不平等に嘆いて義憤に駆られ、次第に革命の必要性を痛感する。ゲバラの革命思想の原点がこんな所にあったのか、と感動するシーンであった。
蛇足:
その1.親友のアルベルトはゲバラの意思を受け継いで、キューバに医科大学を設立した。
その2.ゲバラと言えば、筋骨逞しく、顎鬚を生やして、ベレーボーを被り、野性的であ
りながら知的な雰囲気。その点南米の若き人気俳優ガルシア・ベルナルは、十分に知的ではあるが、野性味には乏しいと感じた。
<ゲバラの生涯と彼の生きた時代>
5人兄弟の長男としてアルゼンチンに生まれる。2歳で喘息を発病。少年時代は読書とラグビーに熱中する。時折襲う喘息発作で、頻繁に試合を途中棄権した。ブエノス医科大学に進学し、アレルギー疾患の研究をした時期もあった。
革 命成功後は、カストロ首相に請われて国立銀行総裁に就任した時期もあったが、1965年3月21日ハバナ青年集会に出席した後は、姿を眩ます。1967年 10月7日夜、南米ボリビア国ユロ渓谷でゲバラとその仲間17名は政府軍6個小隊の夜襲を受けて足に負傷、逮捕され、翌日小学校の教室で射殺される。
ゲバラの生きた時代は、世界各地で旧体制が
綻 び、崩壊へ向かう兆しを宿していた。アジアではインドシナ全域を巻き込んだ米軍のベトナム戦争。ソンミン村大虐殺。「ベトコン」が世界用語になった。南米 各地の多くの国々で、白人移住者による先住民への圧制に反発したゲリラが蜂起。アフリカではコンゴ動乱、チャド紛争が勃発。巷には反戦歌とビートルズが流 れ、黒人運動の指導者キング牧師が暗殺された。日本国内では学生運動の最盛期で、大学からは学園の雰囲気が消え失せ、至る所に看板や赤旗が乱立した。小田 実、市ノ瀬などのジャーナリストの活躍はあったが、情報源を西側の取材に依存していたマスコミの報道からはベトナム戦争の真実と現実は伝わらず、国民の多 くはベトナム戦争景気に酔っていた。三島由紀夫の死は、時代を象徴するかのようでもある。

<内蒙古>ニルヴァーナ10号のクマさん日記より
蒼き狼の異名で知られるジンギスカンが統治していたモンゴル帝国には、内蒙・外蒙の区別は無く、蒙古民族が支配する広大な帝国と、大小の部族が領有する衛星国家から成っていた。
現 在中国の国境沿いに、帯状に西北に連なる地域を内蒙と称している。年間降雨量400-500mmの半乾燥地帯で、農業は夏に栽培可能な、葡萄、ジャガイ モ、トマト、タマネギくらいのものである。主な産業は、短い夏の間に行われる牧畜と乳製品作りで、羊、山羊、牛、馬、駱駝などが飼育されている。短い夏が 終わると、秋はあるのか無いのか気づかぬ間に過ぎ、いきなり寒い西風が吹き始める。風は昼夜の区別無く、風速10-15mで吹き荒ぶ。平坦な屋根に粘土を 乗せた、丈の低い民家が点在する。室内はガンガンに蒸気が通り、シャツ1枚で居られるが、冷たい風の中を、星明かりを頼りに屋外のトイレに行くには勇気が いる。
冬になると緑黄野菜が無く、住民はビタミン不足になりがちとなる。極北や砂漠の遊牧民のように、家畜の血液や臓物を採る方法もあるが、高価なため、一般庶民にはとてもできない食生活である。
零下30℃!自然界では、動きを止めた物は全て凍結する。この中でビタミンを生産して効率よく供給するシステムを構築しなければならない。それには、微生物に頼るのが現実的だ。原料は穀物。熱源は、暖房用のボイラー。これならできる。
ま ず、玉蜀黍を粉砕して煮た後に、Aspergillus glaucus を植える。この黴は、革や乾物にも生える程強靱な生命力を持つ。この黴を培養して澱粉を糖化させ、分解が進んだ頃合いを見計らって、加熱する。ただし澱粉 が変質しないよう、菌の活動を抑制する程度に加熱するのがポイント。続いて、同系統のA.Oryzaeを培養すると、培地内にVB群が蓄積される。ここに 乳酸菌を添加して、VC含有量を高める。培地には大豆を加え、味噌の形で消費する。うん!これで出来上がり。量産体制を整え、後は帰国。滞在期間1ヶ月半 の仕事ととしては、上出来。宿と食事の提供を受け、北京までの旅費と地元の特産品を土産に貰ったが、技術料の感覚は無く、それきりになってしまった。            次ページに続く
そう言えば近年、元東北試験場長の田中さんが、朝鮮族移住地で、浅い溜池をビニールで覆い、太陽熱で暖めた温水 を利用して、稲作栽培を始めたそうだ。また別の場所では、、サッポロビール付属農場を定年退職した人が夫婦で移住し、ホップや葡萄栽培の技術指導をしてい ると聞いた。なるほど、持てる技術は分け与え、利用しながら継承して行くのも、開発者の生き甲斐なのだろう。   クマさん日記より

<踊り>ニルヴァーナ9号のクマさん日記より
白鳥の湖やクルミ割り人形を演じるモスクワバレーにうっとり・・・どうしてこれほどまでに優雅でもの悲しい身のこなしができるのだろうか、と感動しながら 観ていたら、1人の東洋人が出て来た。以前には考えられない事だが、現在モスクワのボリシェイユバレイ団で主役を演じる彼は、日本人男性だという。バレー 留学してそのままモスクワに残り、同じ団員の女性と結婚して現在もモスクワ暮らしを続けている。そう言えば、数十年前にスペインでフラメンコを踊っている 日本人女性がいたのだから、不思議でも無かろう。
繊細で優美なバレーの世界とは打って替わって、庶民の民族舞踊となると、その土地の環境や生活の匂いが色濃く演じられる。コサック、ポルカ、コーカサス地方の家畜追い歌などからは、どうしてもバレーの世界は連想できない。
ところは変わり、地中海沿岸アンダルース音楽は、アラブ音楽に似てゆったりと重たく流れる旋律であるが、踊りは完全に異なる。アラビアダンス程の躍動感は 無く、しかし抑えた動きの中に力強さを表現している。アラブ音楽とアンダルシア音楽の区別を知るには数年かかるが、踊りは一見して違いが分かる。
地中海を南下してアトラス山系に達すると、
肩 を細かく震わすベルベルの踊りがあり、あーこれは随所に羊の行動が採り入れられた踊りだな、と直感する。更に南下するとサハラ遊牧民の踊りがある。この踊 りは何とも悩ましく、見ていると民族のルーツなど考えるゆとりは無くなる。ほの暗いランプの明かりに浮かぶ、踊り子の大きな瞳に魅了され、心臓が破裂しそ うに興奮し、思考は完全に停止する。
さて民族舞踊だが、今日では住民移動やその後の学習などにより、現地の村人達でさえ、自分たちの原点を探るのが難しくなってきた。そこで、民族のオリジンを探る手段の一つに、彼等の民族舞踊を披露してもらうことにした。
ガーナの首都アクラから西へ20km余り、海岸から400q内陸に入った村に立ち寄り、村長に民族の踊りを見せてくれないかと頼んだ。自分は上手に踊れな いので、近隣の婦人達に踊って貰おうと心安く引き受けてくれた。1曲、2曲、3曲と続き、それに伴う踊りが披露されたが、どうも想像していた踊り方とは違 う。本来、民族の踊りと彼等の仕事には関連性があるはずなのに、そこの村の踊りは農耕民の踊りでもなければ、狩猟民の踊りでもない。5回目の踊が終了した 時点で、休止してもらった。どうも、ハワイのフラダンスに似た振り付けが多い。フラダンスよりは個々の動作と間繋ぎが早いが、随所に類似動作が観られる。 村の長老に村の沿革を訊ねると、昔海岸で津波に襲われ、この地に移住して来たとの報である。なるほど、なるほど。ボルタ湖の北、その昔、上ボルタと言われ た地域、現在で言えばブルギナファソ南部地域の住民は、代々農耕を営む農耕民で、踊り方も
ちゃんと足が地に着いている。方々で見た農耕民の踊りは、躍動的ではないが、
大地に根を下ろし、大空を仰いで、これから生きていくんだと言わんばかりの、強い意志を感じさせる。
フイリピン、マニラのショッピングモールの一角に、現地に伝わる代表的な民族舞踊を見せてくれるレストランがある。出し物は、南から北へと5民族の踊りで ある。南部ミンダナオ島スルー地方の民族舞踊は、銅鑼をならしながら踊り、どことなくインドネシアのワヤンを彷彿とさせる。北部ルソンの山岳民イフガオ族 は、首狩り族として知られた部族であるが、彼等の踊りを見る限りでは、土地を愛し、自然を崇める農耕民族の踊りそのものであった。またフイリピンではピナ ツボ火山の爆発により、山岳民族イタ(アイタ)の存在がクローズアップされた。本来狩猟民とされる彼らの踊りには、飛んだり跳ねたり、奇声を交えて躍動的 に踊る姿は無く、森の動物、樹木、月、風雨が織り込まれた動作が多く、サバンナの狩猟民の踊りとは違って、静かな身のこなしであった。彼等の祖先は、狩猟 よりも採集によって、生活を支えてきたのだろうと想像した。
森から川を下り、見晴らしの良い海岸に到達すると、沿岸には漁民部落が点在する。波 静かな沿岸漁民の踊りには、波の動きと、一日中吹く微風が椰子の葉を揺らし、さらさらと擦れる葉音を奏でる光景が踊りに投影されている。フラダンスやフイ リピンのティキティキは、そんな雰囲気がこめられている。
同じ沿岸漁民でも、珊瑚礁やラグーン、湖沼漁民の踊りの中には、磯に戯れる小魚を追う 人々の姿が投影されていて面白い。琉球舞踊の「たんちゃめ」などが正しくその例で、チャカチャカしながら、軽快なカチャーシーのリズムに乗って、うるめ鰯 かシルバーサイドなどの小魚を掬い、それをいち早く売り歩く動作が織り込まれている。コマネズミの動きを連想させる、ちょこまかと細かい動きを繰り返す。

<地中海>ニルヴァーナ8号のクマさん日記より
南欧は「北海道と同じ緯度に位置しているんですよ」と言うと、「へーえ」と言う返事が返ってくる。更に言えば地中海を挟んだアフリカ大陸北岸でさえ、東北と同じ緯度にある。因みにチュニジアの首都チュニスと同緯度にあるのは、仙台市である。
チュニスは古代ローマ帝国に対して闘いを挑み、象でアルプス越えをしたハンニバル将軍が活躍した、カルタゴに隣接する。乾燥性の亜熱帯気候で、雨季乾季の 区別がはっきりしている。地中海性気候の特徴は、冬に雨が降り、この時ぐーんと気温が下がるので、ボルヌースと呼ばれる、羊毛で織ったマントをはおる。地 方ではいまだに陰暦で、農・漁業を営んでいる。
5月になると、大西洋を回遊していた黒マグロがジブラルタル海峡を通り、産卵場所を求めて穏やか な地中海に入ってくる。沿岸にはマドラグと呼ばれる、大がかりな鮪定置網がしつらえてある。鮪漁を皮切りに、鯖、鰯、イカ漁が続く。殆どがランパラと呼ば れる集魚灯漁法である。日本のイカ釣り船や、フィリピンのバスニグ漁は集魚灯が本船についているが、ランパラ漁は一人乗りの小舟にカーバイドを炊き、2、 3時間かけて集魚する。頃合いを見計らって本船が集魚舟に接岸し、網の端を渡し、魚群を巻く。極めて経済的で効率的な漁法である。
時々せっかく集めた魚群にイルカが侵入して、魚を追い払う。「くそ、撃ち殺してやる!」と船長は水面目がけて自動小銃で威嚇射撃をするが、間違っても打ち捕らえるのを、見たこともなければ聴いた事もない。
陸 地では、一年の半分は夏で、冷たい冬との間に短い春と秋がある。食糧生産も祝祭事も全て夏に行われるので、夏は本当に忙しい。寒気を残した風の中でミモザ が開花すると、やがてヒナゲシ、ラベンダー、オリーブ、サフラン、薔薇、葡萄、かんきつ類と、先を競い合う。蜂や蝶が飛び交い、時には招かれざるバッタや イナゴの大群が襲来し、小麦を食い荒らす。地中海沿岸では、温暖な気候に育まれて香草や薬草が多く、古くから住民の生活の中でよく利用されて来た。そし て、現在も世界の香料市場の動向を左右する、南仏グラス。薔薇油1cを製造するのに、新鮮な薔薇の蕾が2千個以上必要である。世界の三大産地(南仏グラ ス、モロッコ南部、ブルガリア東部の薔薇渓谷)では、何処も変わらず、黎明の中で籠を担いだ乙女達が、朝露に濡れた蕾 を手で摘んでいる光景を目にした。 胡椒、肉桂、丁字などの東洋貿易でもたらされた高価な香辛料を入手する事が困難な地中海沿岸庶民の家庭では、庭先にネギ類以外にセージ、バジル、オレガ ノ、フェンネルシード、ローズマリーなどの香草を栽培して利用した。口の悪いローマ貴族達は、これら自家生ハーブを、貧者の香辛料と言った。香水はエジプ トからギリシャへ渡り、ギリシャではヒポクラテスによってハーブが薬源として医療に活用された。その技術はイブンシナ(アラブ人)により、ローマを経て、 やがてフランスとその周辺諸国にも伝搬した。
こと、香料に関して言えば、アラブやアマハラ(エチオピア)の貢献は大きい。アラブ人はアルコールの発明により、植物性揮発油の抽出を容易にして香油を生成した。アマハラには、薫香を煎る事で、香を高める技法を編み 出した歴史がある。

<ミツバチ>ニルヴァーナ7号のクマさん日記より
よい香りを放つ香料植物がなぜ植生密度の乏しい半乾燥地に多いかについては、受粉の確率と関係がありそうだ。
植生密度の濃い高温多雨地帯では、昆虫が甘い蜜源を見つけるのに大した労は要らない。ミツバチは、大量の貯蜜の必要がなく、採蜜もほどほどにしか行わないので、養蜂業が成り立ち難い。
一方植生密度が疎で、植物の群生地が限定される乾燥地では、広大な面積を蜜捜しに飛び回るだけでも大変な苦労が要る。そこでミツバチは、匂いを頼りに飛び 立ち、花の咲く群生地へと飛行する。乾燥地の植物は甘い匂いを放ち、客寄せに努める。だから複眼で遠くが見にくい昆虫でも、容易に蜜源を見つけられる。
昆虫の遠距離飛行を容易にする条件の一つに、地表面を流れる上昇気流がある。カモメが、海面を渡る僅かな上昇気流に乗り、羽ばたきもせずに海面すれずれに滑空している様子をしばしば目にする。
乾燥地でも、海面に似た上昇気流がある。昆虫は、渇いた風に運ばれる埃っぽい匂いの中に花の香りを嗅ぎ分け、蜜を求めて飛行する。彼らは風上に向かう時は、風力の影響を受け難い上空を飛行し、帰路は地面すれずれに吹く速い風の流れを捉えて移動する。
フオン・フリッシュ博士(1973年、「ミツバチのダンス言語」でノーベル賞を受賞)によると、餌場が巣から100m以内は演舞ダンスで、それ以上は8の 字ダンスをするのだそうだが、アフリカ地中海沿岸地方の半乾燥地で見たミツバチの餌場情報は、ダンスではなく、音波伝達に依存しているようだ。また西アフ リカのサバンナ地帯ブルキナ・ファソのナレ村で観察した
野生ミツバチの餌場情報は、十数メートルの
樹上に剥き出しになった巣の上で、太陽に腹
を照らしながら尻を高々と上げて踊るもの
だった。

<ジャマイカの朝>ニルヴァーナ6号のクマさん日記より
星の瞬きが弱まり、東の空が明るむ。太陽が水平線上に顔を出すと気温は急上昇し、これまでの山風が止まって、忽ち島全体が無風地帯となる。午前7時半と云うのに、茹だるように蒸し暑い。
や がて、温められた海面から水蒸気が立ち上り、雲となって南の海上に浮かぶ。時間とともに陸と海の温度差が増し、風は海から陸地へと吹く。午前十時、雲は風 に乗り島に向かって一直線に滑空を始める。陸地に到達した雨雲は、海抜二千メートルの山に行く手を阻まれ、重さに絶えかねて雨を降らす。カリビア海に浮か ぶジャマイカの朝である。
殆ど毎日降る雨のお陰で、島ではコーヒー、コショウ、バナナなどがたくさん採れる。住民の殆どはアフロインディアンと呼ばれる、カリビア原住民とアフリカ移民との混血である。
こ こには珍しい動植物や希少生物も多い。中でもルビーハチドリと呼ばれる世界最小の鳥は、虻と間違うほど小さい。だがしかし、あの見目麗しき姿は一目でハチ ドリと確認できる。ハチドリは、恰もヘリコブターがプロペラの回転軸を変えながら垂直移動、水平飛行、空中停止をするように、翼を回転させながら空中に浮 遊した状態で、長い管状の舌を延ばして花から蜜を吸う。
島の西端にあるハンセン病の施設では、欧米のキリスト協団体から派遣された職員が島民に溶け込んで、ピジョンイングリシュと呼ばれる国籍不明の言語を喋りながら、笑顔で働いていた。

記事掲載日:2006/01/26(Thu)

新年によせて

明けましておめでとうございます。当クリニックは創立半年、地域の皆様方には大変お世話になりました。本年もどうか宜しくお願い申し上げます
今年は記録的な寒波襲来で、各地で雪による事故や災害が発生しています。
医療費の負担増に増税が加わり、国民負担が増加して、生活の質は低下傾向を抜け出せません。私達の暮らしはと言えば、各人が知恵を絞り、工夫を凝らし、日 々を楽しく生きる努力が要求されそうです。思い返せば、昔に戻った感もしないではない昨今です。戻ったらもどったで、昔の自然食や自然エネルギーの再考、 再導入も一案でしょう。健康に関しては、日頃から信頼できる医療機関を選び、かかりつけの医者と連携しながら、賢く自己管理して行く術を習得する時代にさ しかかったと思うこの頃です。

記事掲載日:2006/01/07(Sat)

師走の景色

移ろう自然の彩と弦楽器の調べは、年の瀬の叙情に調和して心地よい。
中でも地元のラス・マンドリーナスの演奏は、柔らかに、静かに、 力を抜いた演奏手法で聴衆を魅了する。さすが演奏歴20余年のベテラン女性奏者達である。演奏歴の浅い奏者は、自信がない分力を込めて一生懸命弾くので、 どうしてもダイナミックになってしまう、という話を聞いた。
ブタペストのブタの国営ホテルで催された音楽会を思い出す。旧宮廷ロシアのハープ奏者がバラライカと競演したが、抑えて囁くように奏でる音色に引き込まれ、自分のいる空間も時も忘れさせる魅惑的なものだった。

回教徒たちは、毎年一定の期間、太陽の見える間は一切の食事を取らない「断食」の習慣を持つ。故国(モロッコ)に帰省していた友人が、断食明けの11月、 ナツメヤシの実やバラ水を持って帰ってきた。筆者が現地に居る間はさほど珍しくもなかったが、日本に帰国して冬の乾いた平原の中でこれらのお土産を見る と、現地を思い出して郷愁を誘う。

地元中富の初期の移住者達の話には、ヤンキーハウス、米軍基地労働者の思い出、雉や狸の話がでてくる。
農 家の方々が言うには、昔はこれほど土埃がなかったそうな。それもそのはず、昔は人や畜力に頼っていたので、耕起には自ずと限界があった。ところが耕作機械 の発達により、畑の深耕、土壌の破砕力が飛躍的に増して、畑地の土壌は微細顆粒・粉末化した。それが乾いた風に吹き上げられて、砂塵化する。米国西部で見 られる、ダストストームを連想させる。幸い当地での表土流失は限られた面積でしか起きていないのと、収穫の後で乾季が訪れるため、大きな減収にはならない ようだ。

記事掲載日:2005/12/20(Tue)

木枯らしの季節

栗、芋、大根の収穫が済むと、木枯らしが吹き、ジングルベルが聞こえ、やがて暮れの足音が迫り来るこのごろです。巷では景気回復基調の華やいだ情報が流 れ、明るい兆しが見えるとの報。さて、わが中富はあいも変わらず浮世離れしたのんびりムードと言いたいところですが、しかし微小ながらも確実に変遷してい ます。圧倒的に新参者の多いこの地域ですが、20余年のベテラン企業が撤退して行く様には心が痛みます。
私ごとを言わせてもらえば、この地に診療所を構え半年近く経ちました。その間、日常の診療活動に加えて地元の行事や医療相談にも参加させていただきました。少しずつ地元で認知され、皆様に愛されつつあると実感しています。
それに加え、これまで国の事業であった国際協力機構(JICA)招聘医師団体研修を民間病院である当院で実施した事は当該分野では初の試みであり、所沢から世界への医療情報を発信できたと自負しています。
これから寒くなり、体がまだ寒さに慣れていないことから風邪をひき易い状況にあります。外出時には防寒と保温を、帰宅時にはうがいや手洗いを心がけていただきますように。

記事掲載日:2005/11/19(Sat)

残暑

お盆が過ぎ暑さも峠を越しただ感がしますが、高温多湿、残暑の厳しい季節が続き、熱中症や脱水症が気になる昨今です。できるだけ直射日光を避け、水分補給 をしましょう。基本は、消化の良い栄養価の高い食物を腹八分とり、十分な休養と快い環境の中で元気で美しく、楽しい夏を過ごせたらと願っています。
漢方では土用の時期の脈調は遅緩脈が良いとされています。それは脾も胃も順調に働き、気血の生成が盛んで、熱が内に篭らない状態を保持していることです。
そんな猛暑の中で、原油価格は高騰し、国内は国政選挙で熱くなっています。各党、各派閥とも首相のパホーマンスに翻弄され、てんやわんやの大騒ぎ、高齢化と少子化が進む中で、医療、福祉、生活はどうなっていくのでしょうか。
治療は各医療専門機関に委ねるとしても、予防、未病対策は各自が取り組まなければいけない時代に向かうようです。減量、減塩、減煙、減酒は成人病予防対策の必須事項ですが、特効的な処方は無く、食事や運動による方法が、安価で効果も大きいようです。
これからの時代には、発達途上の地域はより良い機能を目指して切磋琢磨し、成熟した組織は、より良い機能を目指して縮小し、一方個人は過肥を改め、機能保持を目指して縮小し、均衡のとれた健康維持に努める知恵と実行が必要かと考えます。

記事掲載日:2005/09/06(Tue)

国連環境会議 —生物多様性と少数民族— からの報告

今月初め国連大学で開催された環境と文化に関するフォーラムでは、5大陸からそれぞれ代表的な民族が出席して、祖先の代から現代に至る自然環境との関わり方を紹介した。
南米ペルーの山岳民族は、山を崇めコンドルのように風に吹かれて空を舞うのを最上の幸せに思えるのだそうだ。しかしそんな素朴な世界にも物質文明が浸透 し、経済活動を重視せざるを得なくなった。若者達は、村で農林業を営むよりは下界の町に出稼ぎに行って現金収入を得ようとする。自国政府の財政は困窮し、 工業化も農業対策も不十分である。開発の遅れは、昔のままの自然環境を残す一方、地域によっては人口増加による伐採で林が激減した。それでも辛うじて、昔 ながらの伝統的な生活は細々と受け継がれている。
一方経済発展著しいアジアでは、希少資源の減少が著しく、辺鄙と思われているネパールでも、様々な種の絶滅が危惧されている。中でも漢方薬の原料となるジャコウジカは、乱獲がたたり消滅したと推測されている。
自然環境の保全を議論する中で、チベット代表は自国独自の医療と弾薬源保護の必要性を訴え、満場の共感を得た。
島礁国では、薬源を海草や魚介類に依存し、それらの微量成分を細かく把握している。特に魚介類の毒素が、鎮痛、止血、下痢止に効果があるという。これらは今後、追跡調査をするに値すると思われる。
何処の地域の少数民族も、自然を愛し共存しながら生きてきた。しかしながら希少種となると、彼らの間でもハンティングの危険に曝されているのが事実である。
並里次雄(写真はペルー代表のアンデス民族)

記事掲載日:2005/07/05(Tue)

トメの恋

元禄7年(1694年)川越藩主柳沢吉保の家臣・曽根権太夫が開拓に着手し、2年後の元禄9年に900余ヘクタールを開墾した。

各村の面積と戸数は、上富村が448ヘクタールで83戸、中富村が212ヘクタールで39戸、下富村が255ヘクタールで48戸であった。3つの富村は、別名を三富新田と呼ばれ、整然と地割りされた美しい田園の景観を、現在に伝えている。

しかしながら、当初灌漑設備の無い痩せた農地での耕作は天候異変が起きると忽ち凶作に陥り、離農者も続出したという。

その後明治4年(1871年)の廃藩置県と以後の町村合併を経て、平成8年(1996年)現在の三富(上富、下富、中富)が再興した。

オーストリアの科学者Auer von Weishbach (1858-1929)は、火焔をマントルで覆い、白熱を発する照明用ガスランプ・カーバイトランプを発明した。別名をアウエルランプ、オーエ(ル)ン灯などと呼ぶ。

明 治初期の頃に住民が用いていた灯りは、せいぜい祝祭日に菜種油や松明を灯すくらいのものであった。其処に一人の欧州人が来て、いきなり真昼の太陽光に似た ガスランプを灯して見せた。ガス灯の明かりは、若いトメさんだけでなく誰の目にも眩く、憧れと感動を与えたに違いない。村人たちは巨漢の紅毛人を遠巻きに 見守る中、好奇心に満ちたやんちゃなトメさんは、物怖じせずに身振り手振りで彼に接した。

この西洋人は、医葯の知識を持ち合わせていたらしい。自生する薬草に茅の根で甘味を付けた湯液をトメさんに飲ませて、熱発や腹痛を治したそうな。

ト メさんが彼を、「赤鬼!」と呼べば、「なんだこの騒々しい雌鳥が!」、と彼も負けずに切り返していたのだろう。しかし異国で孤独に生きる彼の心を、無邪気 なトメさんがどんなにか慰めたに違いない。またトメさんの方も、大きな体をかがめて看病する彼に深い信頼を寄せ、やがて淡い恋心になったのも自然なこと。

−口承伝説をもとに作成−
記事掲載日:2005/05/13(Fri)

ニュース

男性型(壮年性)脱毛症とプロペシア

男性型脱毛症:男性ホルモンの影響で、前頭部から後頭部に限って硬い毛が軟毛化する現症です。昨年末、待望のプロペシア(フィナステリド:0.2mg/ 錠、1mg/錠)の発売が認められました。この薬剤は、脱毛の進行を止め、発毛剤・育毛剤としての性格も持ちます。多くの場合、6ヵ月から1年間の内服で 改善が見られます。日本での長期観察(5年)では、90%に改善効果があったと報告されています。副作用の発現頻度は、276名の調査で4%にみられ、い ずれも軽度でした。(Kawashima M. et al. Eur. J. Dermatol. 2004, 14(4), 247-254)

男性型脱毛症のスカルプケア
男 性型脱毛症の場合、皮脂や発汗が多く、頭皮の湿潤度が高い方が多いようですが、毛母細胞(毛を作る細胞)の働きを増進させて毛の成長を助けるためには、汗 や汚れを落として、毛穴の周囲を清潔に保つ必要があります。しかし、シャンプーのし過ぎは良くありません。朝夕2回のシャンプーは過剰で、洗い過ぎやシャ ンプー剤の不充分なすすぎによる頭皮の障害もまた、毛髪の正常な成長を妨げるもとになりえます。
フケ:脱毛早期に、しばしばフケの増加が見られます。フケは頭皮の軽い炎症を示しますが、毛包開口部で厚くなりやすく、毛髪の伸張を妨げます。体調の悪いとき、ストレスが強いときにも増加します。またカビの一種が関与していることがあり、この場合は抗真菌剤が有効です。
タバコ:末梢の血管を収縮し、局所の血流を少なくする作用は良く知られています。成長期の毛母細胞は、人体組織の中で骨髄細胞と同じくらい活発に分裂しているのですから、毛髪の成長に悪いのは当然です。

記事掲載日:2006/01/15(Sun) 

内科より今年の花粉症対策

まだ寒い時期が続きますが、早春は花粉症の季節です。今年の花粉飛散の開始予想時期は、スギが2月中旬、ヒノキが3月下旬のようです。花粉症(季節性アレ ルギー性鼻炎)の代表的な症状として、くしゃみや鼻水(鼻汁)、鼻づまり(鼻閉)が挙げられます。対策としては外出時には眼鏡やマスクを着用し、花粉の飛 散時期には洗濯物を外に干さないことも有効です。また毎年花粉症にかかる方は、花粉飛散の2週間程前から抗アレルギー剤を予防的に内服することも効果的で す。近年抗アレルギー剤の開発は目覚しく、多くの場合ほとんど眠気が無くて、効果的に症状を抑えることができます。

記事掲載日:2006/01/13(Fri)

褥瘡の予防と治療

褥瘡は予防が最も大切で、できやすい条件を1つずつチェックし、できにくい方向に持っていきます。できてしまった褥瘡は、早期に発見して改善を目指します。

褥瘡の治療は、程度(広さ・深さ)と時期(急性期・慢性期)によって異なります。また部位も大切で、治療経過に大きく影響します。

治療:壊死物質の除去と洗浄が原則です。時期と症状に応じた適切な外用剤の選択、様々な貼付剤(ドレッシング)の利用、壊死物質の外科的除去などを行います。これらは傷の進展を抑え、治りを早めるための治療です。また栄養改善、日常生活上の問題点の検討なども大切です。

記事掲載日:2006/01/13(Fri)

皮膚科より

イボについて
いぼ(ウイルス性のもの)、うおのめ
痛くない方法で治療できます。
その他のイボ
俗に「イボ」と称されるものには、ウイルス性以外にも様々な疾患があります。代表的なものは、@脂漏性角化症とAアクロコルドン(別名スキンタッグ)です。
@は顔、頭、首、体幹に多発します。ほとんど色の無いものから黒褐色のものなどさまざまで、多くはベタッと扁平に隆起します。Aは頚、胸、腋にできやすく、米粒よりも小さな、突出したものです。これら@とAの多くは、外来診療できれいに取ることができます。
皮膚にできるイボに似た小腫瘍にはこの他にもたくさんの種類があり、中には悪性が心配されるものもあります。悪性か否かは、簡単な病理検査で調べることができます。

記事掲載日:2006/01/09(Mon)

皮膚科より

ケミカルピーリングのご紹介
ケミカルピーリングとフォトリバイブ(LED)を組み合わせた治療に、さまざまな美容効果がみられます。
LEDは、レーザーでもパルスライトでもない第3世代の光と呼ばれています。PDT(Photo Dynamic Therapy:光線力学的療法)
ケミカルピーリングの作用機序
ケミカルピーリングは、化学物質を塗布して表皮を一定の深さで剥脱し、皮膚の再生を促す治療法です。
表皮の角層は、多数の層になった細胞からできています。一番下の層(基底層)から形を変えながら順次上昇して、最後は角質層となって剥がれ落ちます。基底 細胞が分裂・分化して角化する過程は、約40〜50日です。このサイクル(ターンオーバー)が加齢などによって遅くなると、皮膚の表面に古い角層が固着し て、皮膚がくすんだ色になります。
ピーリングは、古い固着した角層を剥離して基底細胞の分裂を早め、規則正しい角層を新生させます。また同時に真皮の線維芽細胞を刺激してヒアルロン酸やコラーゲンの産生を亢進させる治療です。
当院のケミカルピーリング
グリコール酸と乳酸のダブルピーリングで浸透性を高めます。
所要時間:約15分
ピーリングに続いて、以下の薬剤を使います。
1 プロビタミン
ピーリング後の皮膚に浸透してメラニン色素の生成を抑え、線維芽細胞を活性化します。
2 レチノール
表皮のターンオーバーを亢進させ細かいシワを改善します。

続いてオムニラックス(LED)を照射します。
所要時間:20分
真皮に深く浸透し細胞内の光受容体に吸収されます。
線維芽細胞の代謝を通常の4倍に高めます。
光線療法に代わって、プロビタミンのパックをする場合もあります。

LED:Light Emitting Diode(発光ダイオード)
415, 633, 830nmの3種類の光線のみを選択的に照射します。
それぞれの波長を目的別に使い分けます。
(詳しい作用機序は次項参照)
<AHA(グリコール酸、乳酸)の作用>
角層の結合力を弱めて剥離を促す→毛孔の角栓除去(ニキビ)
表皮のターンオーバー亢進による古いメラニンの除去→美白
チロシナーゼ活性の抑制によるメラニン生成の抑制→美白
線維芽細胞の代謝亢進→皮膚の張り(シワ・タルミ)
<レチノールの作用>
表皮のターンオーバーを促進してメラニンを排出させる
光老化皮膚の改善(真皮膠源線維の合成亢進)→
皮膚のテクスチャーと細かいシワの改善
<LEDの作用>
赤:633nmの光線による線維芽細胞の活性化
超高輝度LEDの優しい光が、真皮のコラーゲンを作り出す細胞(線維芽細胞)を強力に活性化する、肌の回復トリートメントです。痛みや腫れなどはありません。(まぶしく感じますが、決して有害なものではありませんので、ご安心ください。紫外線は含んでいません。)
青:415nmの光線によるアクネ菌の死滅
アクネ悍菌は、『ポルフィリン』という光感受性物質を含んでいます。アクネ桿菌にオムニラックスブルーの光が当るとポリフィリンが反応し、大量の活性酸素が発生してアクネ菌を破壊します。また皮脂腺からの過剰な皮脂分泌を抑制する効果もあります。
白:830nmの光線によるアンチエイジング
オムニラックス830は、近赤外線と呼ばれる波長の光の中でも特に真皮深層への透過度が高く、肥満細胞、貪食細胞、筋線維芽細胞など皮膚の再生に必要な細胞を活性化するのが特徴です。
記事掲載日:2006/01/09(Mon)

 アトピー性皮膚炎

ステロイドを上手に使うこと、なるべく早くステロイドを離脱すること、ステロイドに代わる効果的な治療薬を上手に組み入れること、などに重点を置きま す。漢方薬も、時には著効します。冬の乾燥はアトピー性皮膚炎を悪くしやすいのですが、上手に保湿剤を使うことで、強い薬を使わずにすごせるようにしま しょう。
記事掲載日:2006/01/07(Sat)

ニキビ

中学・高校生のニキビと、大人のニキビは、少し治療法が異なります。
赤く腫れるニキビ、毛穴が閉じて黒く見えるニキビなど、症状に よっても治療法が異なります。ビタミン剤の組み合わせ、漢方薬などを中心に、短期間抗生物質を使うこともあります。洗顔指導や、日常生活上の注意事項も大 切なポイントです。治りにくい場合は、ケミカルピーリングが効果的です。

記事掲載日:2006/01/07(Sat)

内科より

本格的な風邪のシーズンです。典型的な風邪症状は咳、鼻水、痰、喉の痛みなどに代表される上気道症状ですが、中にはアレルギー性鼻炎(花粉やハウスダス ト、ダニによるものが多い)や扁桃炎、喘息の場合もあります。また発熱に加え下痢や吐き気、頭痛、関節痛を伴って受診される方も目立ちます。

インフルエンザが流行りつつあります。上気道症状に先立って高熱が出たらまずインフルエンザの検査をして、インフルエンザかどうかを判定します。インフルエンザの場合、特効薬(タミフル)がありますから、早期に飲めばとても早く治ります。
インフルエンザの検査は、鼻粘膜を綿棒でこすって試薬に溶かして判定します。15分くらいで、感染の有無が分かります。

虚 血性心疾患(狭心症、心筋梗塞)や脳卒中(脳梗塞、脳出血)は、基礎疾患として動脈硬化を持つ方に多く見られます。動脈硬化の危険因子には、加齢のほか、 一般に成人病(生活習慣病)といわれる高血圧や糖尿病、高脂血症(血中のコレステロールや中性脂肪が多い)、高尿酸血症(痛風の原因疾患)、あるいは肥 満、喫煙などが挙げられます。
動脈硬化の進行を抑えるためには、生活指導や食事療法、運動療法、薬物療法を行います。成人病は自覚症状に乏しいため、健康診断で異常を指摘されることが多いようです。
他に自覚症状に乏しく、健康診断で始めて発見されるものとして、肝疾患が挙げられます。アルコール性肝炎やウイルス性肝炎(B型肝炎、C型肝炎)、胆石や胆嚢ポリープがよく見られます。

記事掲載日:2006/01/07(Sat)

皮膚科ニュース

男性型脱毛症のプロペシアが発売されました。当院で処方できます。
記事掲載日:2006/01/07(Sat)

ニュースとお知らせ

 2005年8月31日
江東区文化センターにて講演(法務省主催人権擁護局人権啓発課担当)
ハンセン病シンポジウムにて、「正しく知ろうハンセン病」

2005年10月26日
明治薬大の向日先生と学生達のクリニック訪問
退所者の方々との懇談

2005年10月29日
陽明保育園(所沢市)のハロウィンフェスタにて「応急処置の仕方」についてお話
質疑応答

2005年11月3日
国際協力機構(JICA)研修事業への協力
研修生の研修受け入れ
参加者:アフリカ、アジア、中米の医師5名
日時:11月3日 10:00〜15:00
場所:おうえんポリクリニック
聴講希望の方は事務にご連絡ください。
言語:英語、フランス語、西語。
その他今回参加研修員の構成から、ハウサ語とスワヒリ語が入ります。

Dr. Jeannie Margarita Salvador Dermatologist
Dr. Herman Owuor Weyenga Kenya Medical Officer(Leprosy Hp.)
Dr. Win Maw Myanmar Medical Officer(Leprosy Hp.)
Dr. Kyaw Kyaw Lin Myanmar Team Leader(Leprosy Control)
Dr. Issa Oumarou Niger Chief Medical Officer

11月20日
15年戦争と日本の医学医療研究会
第17回研究会にて「日本のハンセン病対策とこれに係わった医師たち(昔と今)」講演
場所:金沢市保健所・駅西福祉健康センター


記事掲載日:2005/10/14(Fri)

国連環境会議に出席(ユネスコ主催、国連大学・文化庁協賛)

 
5月29日から6月2日まで国連大学で開催された生物多様性会議は、世界各地に点在する少数民族が独自の文化と自然への帰属意識を紹介した。異なる自然環境に生きる民族でありながら、参加者の多くは類似性・共通体験を通して、互いに共感しあう会議であった。

<その他>
Dr. Khanが来日
6月6日:ペシャワール(パキスタン)の皮膚科医Dr. Muhammad Zubair Khanが来日。(NGO:ニルヴァーナ支援)
6 月7日:パキスタンにおける保健衛生の概略とハンセン病対策についての現状報告(クリニック2階会議室)。柏原嘉子先生(元ハンセン病研究センター部長、 微生物学)が、分子生物学の発展をらい菌に応用した興味深い研究など、ハンセン病医学の最先端を紹介。ジャーナリストの井上憲司氏、薬剤師の向日玲子さん が参加して、活発な討論が行われた。
写真は、インダス川のほとりラルカーナの少年達(2002年並里まさ子が感染症調査のため現地訪問時撮影)

講演(北海道庁主催):6月30日札幌にて「正しく知ろうハンセン病」講演(並里まさ子)

来訪取材
篠田プロデューサー:エフエム茶笛(チャッピー)6月1日FM放送
フリーライターの樫田記者:週間金曜日6月10日号に掲載
文京盲学校理療科教諭の田中先生と高橋先生:6月12日施設見学
北海道新聞の青木記者:北海道新聞6月23日朝刊に掲載
仁科記者:ジャミックジャーナル:同誌8月号に掲載予定

<ニルヴァーナ>
東京支部:並里まさ子
おうえんポリクリニック
機関誌ニルヴァーナは、以下のサイトに掲載されています。
モグネット:
http://www.mognet.org/

記事掲載日:2005/07/05(Tue)